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たとえ全裸でいたとしても

 ちょっと,茫然としている。

 何に対してって,様々なセクハラ問題にである。細かい経緯を追えているわけではないのだが,一連の騒動から私が感じたのは「どうも,この社会では『セクハラをしてはいけない』なんてことが社会的合意に至っていないようだ。」ということだった。

 どういうことなのか,実はよく分らない。「セクハラをしていい」理由なんてあるんだろうか?どんな理屈がそこに成り立っているのか,ちょっと興味さえ湧いてくる。不謹慎に聞こえてしまうかもしれないが。

「ひとりで東京へ向かうムスメに伝えたこと」という記事にちらっと書いたが,新幹線に1人で乗る小学6年生の娘に「痴漢」の存在を伝えた際,私は彼女にこう言った。「もしあなたが痴漢の被害にあっても,あなたは絶対に悪くない。」「仮にあなたが全裸でいたとしても,あなたに触れていい理由になんてならない。」

 ならないですよね?

 人は,その人の許可なしにその人に触れてはならない。どういう理由があって全裸でいるのか分からないけれども,とりあえず「触っていいですよ」と言われてもいないのに触ってはいけません。全裸でいる理由を「触って欲しいからだ」と類推して触るのは,「触っていいですよ」という許可を得たことにはならない。

 もちろん,全裸でいる人を前にして,人は心穏やかではいられない。それは私も,あなたも,そうなんだと思う。いろんなものが刺激されて,むらっとくるかもしれない。でもむらっときて許可も得ずに触っちゃった人には,「むらっとさせるな!」と言う権利はない。まずは「触った時点で,文句は言えない」のである。「むらっとさせるな!」と不平を訴えることができるのは,むらっと感を自制した人だけ。「いやいや,全裸でいるなんてあなた,いくらなんでもそれは勘弁してください。別にむらっとしたいわけじゃないのに,私にもむらっとさせられない権利があるでしょうよ。」と。「あなたにもご事情がおありかと思いますが,私はあなたに全裸でいて欲しくないのですよ」というのは,やはり同じ社会にともに暮らす人として主張していいとは思う。そうやって,その人の事情や希望と,周囲の事情や希望をすり合わせてどこかに着地しないといけないのだから。でも触っちゃった人は,もうすでにそんな交渉に参加できるような同じ土俵にいないのである。単純に「キミは出場停止中なんだってば!」ということなのだが,当人(と当人を擁護している人)は同じ土俵でファイトしている感半端ないうえに,私たちも彼・彼女に「出場停止中であること」を認識してもらう術を持たないという,非常に無力感に襲われる構図のただ中にいるのだと思う。

 こうして大人だと出場停止中にも拘わらず対等な発言権があるかのように振る舞う,摩訶不思議なことが起こるのであるが,子どもだったらどうだろうか?例えば自分のムスメやムスコがお友達に意地悪をされたとして,それに腹を立てた我が子がお友達をばしっと殴ってしまったとしたら。「〇ちゃんが先に意地悪したからだ!」と泣きわめく我が子に,どんな声をかけるだろうか?「キミの行為は正当な理由がある→意地悪をした友達が悪い」だなんて言うわけがない。まずは「どんな理由があろうと,人を傷つけてはいけない。」と説いて,「人を傷つけた」ということ,その行為に対する謝罪を促すだろうと思う。つまり,いったん出場停止状態に置くわけである。そこで謝罪がすんだら(かつ相手がそれを受け入れてくれたら)ようやく同じ土俵で,「〇ちゃんの意地悪で自分はとても嫌な思いをしたんだ。」と対等に自分の気持ちや思いを訴えることが許されるし,その思いに他者も共感を寄せてくれるに違いない。でも何度でも繰り返し言うが,人を傷つける暴力がまず真っ先に裁かれるのである。いかなる正当(そう)な理由があったとしても,暴力をふるった時点で「アウト!」と場外に出されるのだ。そうやって暴力に対して厳しい態度をとるのは,他者と自分の人権を守りながら共存していくために必要だからだと私は思う。「正当(そう)な理由があれば暴力も許され」てしまう社会になど,誰もが安心して暮らすことなどできないだろう。

 セクハラだって同じだ。
 たとえ全裸でいようが,酔っ払って前後不覚状態だろうがなんだろうが,「いいですよ」と私が言うまで指一本触れさせない権利,性的な言葉を投げつけられない権利を誰もが有している。そう,それは「誰もが」というところが大切なのであり,今現にセクハラをしている方々も同様に有しているのである。今強い立場にいる人だって,どんなことで弱い立場に置かれるか分からない。でも弱い立場になったり,どんな不利な状況に置かれても,自分が望まないこと,不快に思うことを無理やりさせられないということが保障されていて欲しい。そうやって相互に,守っていかなければならないものなのだと私は思う。

 被害を受けた方に対して,「セクシーな服装がいけない」とか,「夜道を1人で歩いていたからだ」とか非難あるいは指摘している人たちも,大半は悪意をもってそのような振る舞いをしているのではないのだろう。自衛は大人のたしなみだというふうに躾けられてきただろうし,それを信じて身に着けてきただけで,もしかしたら「被害者バッシング」に加担しているなんていう意識は1ミリもないのかもしれない。でももし自分が(どれほど躾けられたように自衛していても)被害にあったとしたら,その言葉は自分に向けられる刃となってしまう。自衛が足りなかった私が悪い,と「思わされる」論理を支持していて本当にいいの?と今一度問いたい。その論理は一体誰にとって都合のいいものなのか,改めて考えてみる必要がある。相手がしでかした行為のひどさ,大きさに拘わらず,それが「自分の落ち度」で相殺されてしまうリスクのある論理だということに気づいていない人が多いんじゃないだろうか。

 結局,
 セクハラという事態を,(根拠のない謎な)客観的ポジションに立って,上空から眺めて分析したら,そりゃあ確かに「どっちもどっち」論にいきつくんだろう。「アウト!」と場外に追いやられた当事者でさえ,「女が男の部屋に1人で来るからいけないんだろ。」なんて言えるのは,そこ(客観的ポジション)には場外なるものが存在しないからかもしれない。そして加害者を擁護する発言をしている人たちも,「加害者ポジション」をとっているというよりは,上空の「客観的ポジション」で冷静にジャッジしているつもりなのだろう。

 でも本当は,この社会に暮らす私たちの誰もが「客観的ポジション」なんてとれないんじゃないだろうか。今回この事態に直接関わり合いのないあなたも私も,もしかしたら被害者になる時がくるかもしれない。その時に「受けた被害が,自分の落ち度で相殺されても甘んじて受け入れる」と言えるのだろうか。事態をジャッジする者としてではなくて,「自分のこととして」考えた場合に同じことが言えるのか,という話なのである。そしてそれは結局のところ,「たとえ全裸でいても安全を保障されている社会」に生きたいのか,「夜道を1人で歩いていたら襲われても文句を言えない社会」に生きたいのか,という選択と結びついているのである。「わたしは」どんな社会を望むのか,社会を構成する一市民としてすでにその志向性を持っているのであり,それのない「客観的ポジション」をとるということは「市民」カウントされないと言っちゃっていいと思う。メディアにみられる「どっちもどっち」の両論併記の罪深さは,どういうわけだか「市民」を放棄しちゃっているところにあるのだと私は思っている。

 だから。

 「男の人の部屋に1人で行ったから悪い」と宣う人に対しては,「でも男の人の部屋に行っても自分が望まないことはされない,と安心していられる社会に断然暮らしたくない?」と返すのがいい気がする。フワフワと上空を飛んでいるところを捕まえて,地に足つけた市民としてモノ申してもらうのである。なにをお花畑みたいなことを,と言われるかもしれないが,現に「全裸の女性を前にしたら襲いかかる」男性よりも「全裸の女性にそっとタオルケットを差し出してくれる」男性のほうが圧倒的多数であると私は思っている。もちろん少数であっても加害をする人はいるわけであるから,自衛は不要だなどとは決して言えないし,言わない。しかしあくまでも求めるのは「たとえ全裸でいても安全な社会」であり,「全裸でいたら何をされても文句の言えない社会」ではない。そんな社会を創るのは私たち一人ひとりの願いと振る舞いなんだっていうことを,「お花畑」をせせら笑う人には言いたいと思う。あなたに無関係なことじゃないんだよ,せせら笑うということはイコール,夜道を1人で歩いていて追い剥ぎにあっても「お前が悪い」と言われる社会を創ることに一票投じてる,ということなのだよと。

 あぁそれにしても謎の客観的ポジション・・・
 破壊力ありすぎだ・・・
 いろんな問題の根っこに絶えず「これ」があるような気がしてきた。

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