見出し画像

スマホが欲しいムスメを通して考えたこと

 「スマホいいな~」

 とムスメが呟くようになったのは、この1年くらいのことである。「まだダメだよ。」「いつになったらいいの?」「お母さんが、もうスマホを持っても大丈夫だなと思った時だよ。」「え~。どうなったらいいの?」なんていうやり取りはさんざん繰り広げられてきているのであるが、具体的な条件は提示せずにはぐらかしている。実際「これだけの情報リテラシーを身につけられたら」とか、「こういう危機管理ができるようになったら」なんていうクリアな条件があるわけでもないし、それをどう測るかという問題もある。だから「色んな対処を自分でできるようになったらね。」なんてウヤムヤにしているが、当然ムスメは(自分にまったく裁量がないもんだから)不満げだ。

 こんなふうにムスメにぶうぶう言われながらもスマホに対して慎重な姿勢を崩さぬ私であるが、別にスマホにしてもその他デジタル機器に対してもアレルギーがあるわけではない。私自身もスマホを使っているし、パソコンがなかったら非常に、とてつもなく困る生活をしている。時々その依存度を思うと怖くなるが、洗濯機や冷蔵庫のない生活だって(今の私には)無理だし、パソコンやスマホもすでに私の生活においてはそれと同等の家電なんである。自分の手でゴシゴシと衣類を洗えないのと同じ程度に、せっせと手書きのチラシを作って配るなんていうことも、すべての連絡を電話とファックスにするなんてこともできない。もちろん「そんな暮らしどうよ?(もっとスローライフでいきましょう)」という問いとお誘いも否定はしないが、もしどっちかを選べと言われたら迷うことなくパソコンとスマホのある生活をとるだろうと思う。「手で何かをする」ことも好きだし、手を動かすことのない生活を味気なく思うが、でもそれは日々労働として強いられるんじゃなくて、自分がやりたいからやるっていう自由が残されていてほしい。そして私自身がやや合理的思考に偏っているタイプなので、「1分でできることを100分かけてやらなくてもよくない?」とも思う。時間をかけて自分の手でやりたいこともあると思うが、それこそそういう仕事は自分で選びたい。

 そんなわけでデジタル機器は便利な道具として上手に使いこなせばいいだけのはずなのであるが。やっぱりフリーハンドで「どうぞ~!便利だよー!」と子どもに手渡せない何かが(私の中に)あるのもまた、事実である。洗濯機を子どもに使わせずに「手で洗え!」と強いたら虐待の様相を呈するのに、スマホはまだ洗濯機のその地位を確立していない感じ?

 いや、違うな。
 手書きがニガテな子どもにタブレット使用を認めず手書きを強要するのはすでに私の中で「虐待」カテゴリーだし、私はムスメに早いうちからキーボードを教え、ネット検索も奨励している。だから文書作成機能としてのパソコン、情報検索機能としてのパソコンは、我が家の「洗濯機」ポジションにあるといっていい。それは、便利な道具の一つである。

 しかし、おそらくムスメがスマホに求めているだろうSNS(コミュニケーション)機能は、単なる便利な道具であるとみなせない私がいるのだ。

 いやSNSに関しても、私はアレルギーがあるわけでは決してない。梟文庫を始める前、つい2年ほど前まではSNSに全く関心がなかったのだが、実際始めてみると「ここには、こんな世界が!!」と、それこそ目から鱗を落っことした。FacebookにしてもInstagramにしても個人では利用しておらず、梟文庫の公式としての情報発信がメインであるが、それだけでも豊かな人間関係の広がりを感じるには十分だった。そこで相互的なコミュニケーションを積極的にしているわけではないのだけれども,なんとなく同じ関心ごとを共有している人たちとのゆるいつながりのコミュニティが生まれている,そういう感覚の持てるものである。しかし私が最も「なんだこれは!!」と衝撃を受けた世界は,個人アカウントのTwitterだった。

 ・・・なんていうとハードにTwitterを使いこなしているかのように聞こえるかもしれないが,実のところほとんど自分自身で呟くことはなく,「気になる情報」「気に入った情報」のリツイートをメインとしている。別に理由があってそうしているわけではなくて,やはり私がそこに求めているのは(相互的な)コミュニケーションというより「情報収集(共有)」なのだと思う。私の場合FacebookやInstagramは公式アカウントのため,ほかの人のフォローをほとんどしていない(できない)のであるが,Twitterは個人アカウントだから自由に気になる人をフォローしている。そうしてあれこれフォローしてみて驚愕したのは,自分から情報を検索しなくても、情報が「向こうから勝手にやってくる」感だった。そう,情報は「取りに行く」ものではなくて,そこでは「やってくる」ものなのですよ。さんざん言われてきていることなのだと思うが,「気になる人」の「気になること」は「私の気になること」だし,「気になる人」の「気になること」を「気に入る人」が「気になること」は「私の気になること」であり・・・という無限の連鎖が押し寄せてくるわけで,ただボーっとしてしているだけでも「気になること」に囲まれちゃう,みたいな状態になる。いいんだか,悪いんだか・・・なんていう善悪の判断なんぞ全く追いついていない感じで,勝手にやってきた自分好みの情報の海にぷかぷか楽して浮いちまっているんデス。だからすでに今となっては「自分から情報を取りにいかないといけない」ということをおっくうに感じるようになってしまっている。この「情報を得る」ことをめぐる経験の質的な変化は、おそらく実際に体験してみないと分かりにくいのではないだろうか。私もまさか自分が「情報は向こうからやってくる」ものだと思うようになるとは、想像さえしていなかったのである。

 そして私が今でも想像できずにいるのは,そこに「コミュニケーション」が加わったらどんなことが起こるのか?ということである。

 繰り返しになるが,私はそこでいわゆる「コミュニケーション」をとっていない。自分が呟くこと自体稀であるし,相手の呟きに直接コメントしたり,メッセージを届けることもほとんどない。そしてここが肝要なのだが,リアルでお付き合いのある方をフォローしていない,ということである。何か特別な理由があって「絶対しない!」と決めているわけではない。ただそもそもの目的がコミュニケーションではなく,例えば私だったら「発達障害」「医療」「教育」「福祉」「政治」など関心のあるテーマの情報を集めることが目的なので,その界隈の人,その道に精通している人をフォローしたいのである。もちろんリアルでお付き合いのある方の中にも興味関心を共有している場合があるが,大概は直接やりとりすることで(私の場合)事足りる。そしておそらくここがSNSネイティブの方々と最も違う文化なのだと思うが,直接お付き合いのある方の様々な生活背景みたいなものを一方的に取り込んでしまうのはしんどい,と感じてしまうのである。

 これはなんていうんだろう・・・そもそも情報量が多すぎる!というキャパシティーの問題でもある。直接のコミュニケーションは,双方がお互いに宛てて開示した情報を前提にして会話が展開していく。でもSNSでは「私に宛てて」発信されたわけではない情報も,つらつらと流れてくる。その情報全てを込みにして(前提として)リアルでも会話しなくてはならないとなると,なんだかもう想像しただけでぐったりと疲れてしまう。普段2人だけの関係性では見えてこないこと,あえて取り上げてもないことを,全部ひっくるめていかなくちゃならないような負担感,といったらいいんだろうか。それがたとえ「今日〇〇食べた」とか,「明日どこそこへ行く」とかいう些細なことであっても,お会いした時に話題として取り上げて,「あぁどこそこ行ってきたんやったなぁ。」とか言わなきゃいけなくなる感じ?だから逆に「いろんなことが見えているほうが安心」というタイプの方もおられると思うのだが,古臭い私は「見えない方が断然楽」と心底感じている。それに直接お会いすることもありながら,SNS空間でも常にお会いすることになったら,なんだかオンとオフがないというか,常時一緒にいる感じになってしんどいんじゃなかろうか,とも思う。もしかしたらそんなことにならないのかもしれないが,私は「そこんとこきっちり分けときたい」と思ってしまうようである。

 そう,きっと私は古い文化を携えつつ新しいコミュニケーション空間に「参入」しているので,「リアル」と「SNS」がくっきりと線引きされた世界に住んでいるわけだが,「参入」もなにも「気づいたときにはそこにいた」という方々にとっては,「おばちゃん,オンとかオフとかイミフです。」って感じなのかもしれない。

 だから私がムスメにSNSを手渡せないでいるのは,「そんな,四六時中人とコミュニケーションとってないといけない空間なんてしんどいよ!なにが起こるか分かったもんじゃない。リアルでもじゅうぶん面倒くさいのに。」という一方的な思い込みがあるからなんだろうが,SNSネイティブの人々はそんな私の想像とは全く異なる世界を経験している可能性がある。そして私は今のところ,その世界を知らない。

 そうやって私の想像を超えたところで「情報とのつきあい方」や「コミュニケーションといわれるもののあり方(様態)」がまるっと変わっていく,それはもう道具というより「(いきた)場所」みたいなものなんだが,おそらくそこなしに生活していくという選択肢は(ほぼムスメには)ない。むしろそこでどう生きていくか,ということを考えてみると,案外答えはシンプルな気がしてきた。そこに住まいながら,そこの経験を相対化できるかどうか,なんじゃないか。つまりその場にいながら,必要な時にはそこで何が起こっているのか,自分にとって何が必要で何が不要なのか,冷静に,いろんな視点から観察し,考える力。それって別にSNSだけに限らないわけだから,まぁそういう方向のチカラを今後長い時間かけて養っていってね,ということだ。というとすごい他人事感が半端ないが,これは私自身のことでもある。

 そう,気づくと家事を放り投げてTwitterのタイムラインを追って1時間以上経過,なんてことがザラなワタシ,君のことだよ!地震当日防災用品をチェックして,真っ先に買い足したのが車内でスマホ充電するためのシガーソケットってどうなの?その距離感でいいのか?優先順位それでいいのか?検討の余地,大いにありだよね。

細々noteですが、毎週の更新を楽しみにしているよ!と思ってくださる方はサポートして頂けると嬉しいです。頂いたサポートは、梟文庫のハンドメイドサークル「FancyCaravan」の活動費(マルシェの出店料等)にあてさせて頂きます。