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ホームスクールから1年

 中学生のムスメ氏がホームスクールを始めて、1年が経った。

 学校には(本人が行きたいと思う)行事やテスト以外ほとんど行っていないけれども、とても理解のある(そして最大限に協力的な)担任の先生に週に1度は会いに行き、配布物をもらったり、自分の学習の進度を報告したりしている。フリースクールのアクティビティはスポーツをする日に参加していて、週に1日思い切り身体を動かせるのはありがたい。そのほかにいくつかの習い事をしている以外は、基本家で自分の学習を進めていて、割とたっぷりある空いた時間には自分の好きなことをしている。多趣味な人なので、したいことは盛りだくさん、「時間はたっぷりなんてない」と異議を申し立てられそうではあるが、学校の授業に部活に塾にと大忙しの中学生たちに比べたら「相対的に」好きなことに時間を費やしているんではないだろうかと思う。

 わが家はホームスクールを始めた当初から、中学の学習内容を3年間で終わらせなくてもいいという、「勝手に留年方式」を採用している。(詳細はこちらの記事)別に中学3年間で義務教育を卒業したからといって、すぐに高校へ進学しなくてもいいという制度である。ただし高校へ進学したいなら中学の基礎的な学習を身に着けていることが条件であり、その条件を満たすまで、時間がかかってもいいから自分なりのペースで修得してねと伝えてある。そのことを理解しながらも、「まずは学校のペース(3年間で終わらせるペース)でやってみる」ことを自ら選択し、定期テストも受けてきた。

 この1年間、彼女は自分に合う勉強のスタイルやペースを模索し、いろんなことを試みてきたと思う。塾には行きたくないと言うので、私やオットがそのサポートをしてきた。「定期テスト対策」などしているわけではないし、そういうテスト慣れもしていないので、本人の頑張りが点数に反映されないことも多いけれども、先日数学のテストが返ってきて解き直しをしたら、考える時間さえ十分あればしっかり正解できていた。何よりウンウン唸りながら難しい問題を時間をかけて解き、「解けた!」とドヤ顔で父親に報告しにいく様を見ていたら、「これでいい。」と心底思った。「やってみよう(解いてみよう)」という気持ちがくじかれていないこと、自分で考えるということ、できた!と喜べること、自分はやればできるって思えること。そういうものはすぐに点数に現れないと思うけれども、生涯学び続ける力の下地であることは間違いない。ちなみにこの問題は私も「あ?」とか(ガラ悪く)イライラしながら解いてなんとか正解できたんだけど、ムスメ氏より複雑なルートで正解にたどりついたもんだから、お互いに解説しあった時に、「私のほうが♡簡単に解けてる♡」とマウントとられましたですよ。うんでもほんとにキミのほうが明快な解説だった。

 大体こんな感じでテストがあったら全て解き直し、今回の学習の進め方やペースなどを振り返って総括し、次回どこを改善するか考えるまでがセットになっている。・・・なんて書くとどれだけみっちり関わっているのか・・・とひかれてしまいそうだけれども、わが家みんなのんびりなもんで、テストが返却されてから一日30分~1時間くらい、1~2週間ぐらいかけてこんなことをやっている感じである。それから私が彼女と学習しているのは、週に4日くらい夜の1時間に満たない時間である。それもテストの解き直しと、少し苦手な英語のフォロー、難しめの数学の問題を一緒に解くことが中心で、あとは彼女が自分で学習を進めている。

 でも戦略は日々更新されるわけで、今のところ「これだ!」と固定しているものはなかったりする。英単語ひとつとっても、フォニックス学習アプリから始まり、入力の手間から続かずにアナログな英単語帳を使ってみたり、でもそれでは音(発音)のフォローができないのでなるべく簡便な単語帳アプリを探したり・・・という、「日々工夫」の連続である。現在運用してみている、英単語の検索登録ができるアプリ(すごい英単語帳!中学~大学入試全範囲対応)や、教科書を端末に読みこんで音声読み上げしてもらう方法(Office lensでスキャンして補正、google翻訳で読み上げ)についてラクエストチャンネルでもご案内しているのでよかったら見てみてください。いやほんとに今時の印刷物自動補正の性能ってものすごいし、印刷物や手書きの文字認識機能もヤバい(語彙力)です。でもこの時代にこんな機能を駆使しなくてもいいように、教科書は紙とデジタル両方用意しといて欲しいけどね。教科書とセットで別売りされる音声教材がCDっていうのも絶望的である。今時子どもたちはCDプレイヤーなんて持ってないだろうし、パソコンに取り込むの(取り込んでから音楽プレーヤーやスマホにうつすのも)面倒くさすぎやろ・・・子どもたちにとって身近なスマホで再生できるようにしてあげて欲しい(クラウドでぜひ・・・)。とはいえそれが叶うまで待ってもいられないので、最近のデジタルツールの素晴らしい機能の恩恵にあずかりましょう。google翻訳、ただ単に色んな言語をカメラでうつして翻訳してもらうという知的な(!?)遊びも楽しいですよ。

 まぁとにかくこんなふうに「色々やってみる」スタイルで(たぶん親子ともにお互い)助かるのは、「なんで出来ないの?」とか「なんでやらないの?」とかいう親の側(権力を持つ側)の断定、すなわち「子どもの側に問題がある」という眼差しを回避できる点にあると思う。そもそも子どもたちが「できない」とか「分からない」という場合、子どもに責任があるんじゃなくて、教える側やサポートする側が「わかるように」「できるように」教える責任があるということである。さらに「わからない」「できない」という状況にしたって、子どもの能力や意思(やる気)に原因を帰結させるのはあまりにも短絡的であり、子どもの能力というか特性と、環境(課題)や方法、教える側のスキルの問題等々との絡み合いで起こっていることである。それを子どもの側だけに原因を求めるのは、権力の濫用という面だけではなく、「事実とも異なる」がゆえに批判されてしかるべきだと思う。「なんでできないの?」という責めは、自らも(子どもにとっての)環境の一部であることを棚上げにしないと成り立たないし、そんな欺瞞は子どもたちに(言語化されないだけで)見抜かれて、関係性を悪くしかねない。これってもちろん学習だけじゃなくて、片づけとかスケジュールなどの身の周りのこととか、生活全般にいえることだと思う。

 もちろんこんなことを偉そうに言っている私も、「お母さんだって時々そういう目(子どもの側に問題があるという目)で見てるよ」ってムスメ氏から非難されるかもしれない。いや、「かもしれない」というのはズルいな、時々はっと気づいて軌道修正することさえあるし、無自覚にやらかしてもいるだろう。だけどなるべく子どもを取り巻く環境ぐるりと考慮に入れて「一緒に考えよう」っていうスタンスでいたいと願っているし、そうじゃない態度を指摘されたらせめて「ごめん」と謝れるようでありたいとは思っている。ほんとごめん。

 最近読んだ寺子屋ネットワーク福岡鳥羽和久さんの新著「おやときどきこども」にも、子どもが今そのようであるということを、「現象」としてみることが説かれていた。とても共感した部分を引用させて頂こうと思う。

ふだんの家庭での子育てにおいても、子どもに「問題がある」、子どものこういうところが「悪い」と考えることが多々あるかもしれません。でも、「あなたのここが悪いのよ」と考えるのではなくて、私と子どもの関係性に綻びがあるのだ、そう考えることで、もつれた糸がほどけることがきっとあります。なぜなら、私たちは関係性そのものでできていて、私たちには本体はなく、単に現象のみがあるからです。
おやときどきこども p195より引用

 何か問題だなと思うような時、親の側からそれは「イライラ」とか「心配」「不安」として経験されていることが多いと思うが、そんな時は子どもそのものを眼差して責め立てる前に、いろんなものをひっくるめた関係性を現象としてとらえ、その綻びに手当てを施したいな、と思う。

 不登校の問題も、いつまでたっても「(学校へ行かない)子どもの問題」として扱われていることに、最近は苛立ちさえ感じるようになってきた。それこそこの「現象」は、子どもを含めた学校、家庭、地域社会、政治・・・その関係性の綻びが、子どもの「学習する権利の喪失」という形であらわれているのだと思っている。学校が、家庭のありようが、社会が変化を求められているというのに、そのことを棚に上げて、なぜ一番立場の弱い子どもに適応という名の変化を押しつけるのか。眼差す先を、支援の先を、手当を施す先を、子どもから社会へ、その関係性へ、変えていく必要がある。

 不登校は子どもの側の問題ではない、というようなことを書いた記事を、最近雑誌「このちから」さんに寄稿したので、ご関心のある方はぜひお求めいただけたら嬉しい。不登校はこの社会を創ってきた大人の側の問題でもあるということを、もっともっと当たり前にシェアできるようになりますように。願ってやまない。

追記:写真は、子どもの預かり制度「すきまや」で作ったカラフル人工イクラでーす。いろんなことやってる「すきまや」、時々youtubeの「ラクエストチャンネル」に動画アップしているので、チャンネル登録よろしくです♪


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