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それぞれのペースとやり方で

 「スチューデントシティって,生徒のまち,っていう意味か!」

 ホームエデュケーション中のムスメちゃん。スチューデントという単語を習って,自分がかつて校外学習で行った京都市の教育施設「スチューデントシティ」という名前に意味があることを初めて知る。おおお。「スチューデント」が単なるカタカタ文字の羅列でしかない世界では,「そこに意味があったんかい!」っていう発見がまず最大の驚きだよね。そんでもってきっと今までそれが「ティーチャーシティー」だったりしても,「そういうもんか」って受け入れるしかない世界に生きてたんだなぁ。

 意味の世界へようこそ。

 子どもとの生活の中でそう思う瞬間はたくさんあって,その度に嬉しいの半分,寂しいの半分というのが正直な気持ちである。どうしても「わけわからんちん様」でいて欲しいと願ってしまう,(子どもの)成長阻害因子を自分の内に抱えている親で(子どもに対して)大変申し訳ない。もうすでに彼女の中には「わけわからんちん様」があんまりいらっしゃらない分,たまーに顔をのぞかせてくれる「わけわからんちん様」を異様に愛でてしまう傾向すらあるので気をつけねばならない。

 それはさておき。

 英語初学者のムスメちゃんと一緒に勉強していると,色んなことに気づかされて本当に面白い。ムスメちゃん,単語のスペルを覚えるのも一苦労なんだけど,「そりゃそうだよなぁ。」ってすんごい思う。Thから始まる単語の発音,「The」は「ザ」「That」は「ザット」なのに,「This」は「ディス」っていうのにも大混乱である。もう私はそれらの単語をそのようにしか読めないのだけど,ムスメちゃんの大混乱を目の前にして「なんやそのルール」って思わなくもない。他言語を習得するとは,そういう(一見)理不尽としか思えないローカルルールを「そういうものだ」と受け入れることなんだけど。うん,混乱,するよねぇ・・・(※1)

 そしてそのローカルルールをどんなふうに提示されると理解しやすいかっていうのは,人によって違うのだと思う。私は「まず全体像が知りたい」タイプだから,それこそThから始まる単語の一覧表があってくれると助かるが,ムスメちゃんは全く違うタイプと踏んでいる。まだ(学習面での)お付き合いが長くないのでその辺り手探り中なのだけれども,マンガで登場人物が単語の使用例を具体的に提示して「ストーリーと一緒に」理解していく形が合っているように思う。そんなマンガないだろうけど。

 英語に限らず私は今までムスメちゃんに学習漫画を推奨してきたけれども,私自身は漫画で理解がすすむタイプではない。漫画自体は好きだし,色んな漫画を楽しんでいるんだけど,こと「学習」に限っていえば漫画要素は「その余計な情報はいらん」と邪魔に思ってしまう。つまりシンプルに全体像が(一気に)提示されている方が理解しやすいので,理解のために「ストーリーを追う」のはおっくうに感じるということである。こういうタイプの人は「マンガじゃなくて本を読みなさい!」なんて指導しがちなんだろうけれども,テキストとして本のほうが優れているとは一概に言えないと思っている。ただ同じボリュームの形態に詰め込める情報量は,文字を主体にした「本」のほうが優位かもしれない。いやでも絵から拾える情報量も多いのかな,よく分かんないけど。私は「絵」をろくに見ないから,そこからの情報を取りこぼしているだけかもしれない。

 やや話がそれてしまうが,こんなふうに「画像」に関心が向くか,「文字」に関心が向くかっていうのは,持って生まれたものだっていう気がしてならない。ムスメちゃんがえんえんyoutubeを観ていられる感じは私にはまるで理解できないんだけど,文字主体のTwitterを私はずーっと読んでいられる。その中にある「情報の内容」が違うから,と言えるかもしれないけれども,もしそれを統一したとしても,私は動画をずっと見ているより文字を読んでいることを好むと思う。そう考えると,「本を読む」ことは「動画視聴」よりも真面目で正当で好まれる行為として推奨されがちなんだけど,それらの間に本当は優劣などなくて,単なる「嗜好」の問題なんだと思う。充実した学習動画が主流になったら,「くだらない本ばっかり読んでないで,動画見なさい!」なんて子どもたちが言われちゃう日もくるのだろうか。・・・実は私も視覚的に情報を取り入れたい子どもちゃんたちのために,面白い学習動画を作れないかと密かに思っていたりする。

 こんなふうに情報の取り入れ方にしても,それを処理して理解する仕組みも,きっとみんなちょっとずつ違っているんだろうなと思う。そういう意味では,「同じ年に生まれた」っていう共通項だけでくくって,実はいろんなタイプの子どもが混じっているのに数十人相手に一斉授業っていう今の学校スタイルは・・・なかなかに厳しい。理想を言えば,年齢で区切るのをやめて,理解の仕方や進み具合に合わせて(教科ごとに)小人数グループを作れるといいんだろうなぁ・・そうするとできる子・できない子の格差と差別が生まれるって批判されるかもしれないけれど,結局「学ぶ」っていうことは他者との比較の中にあるんじゃなくて,「自分に合ったやり方で」「自分に合ったペースで」学ぶことができる権利をそれぞれが持っているっていうことを共有する必要がまずあるんだと思う。現状年齢がきて期間をまっとうしたら「習得していようがいまいが」押し出されてしまうけれども,義務教育の間に学んだ量,身に着けることができた総量が大事であるなら,期間は伸びたり縮んだりしてもいいんじゃないかと思う。みんなが「そーゆーもんだ」ってなったら,別に早い人がゆっくりの人を差別したり蔑んだりしないだろうし,ゆっくりの人が自らの評価を不当に下げることもないだろう。

 そしてもっと言ってしまえば,そうした柔軟なグループ編成は何も教科学習だけに限ったものではなくって,主体性や社会性の育ち具合に応じて,それらを育むための活動グループだってあっていいとさえ思っている。学びって教科学習だけではなくって,主体を立ち上げ,他者と関わって生きていくことそのものなのだから。そしてそこにだって「はやい」「ゆっくり」「その人にあったやり方」というのがあるわけで,それを育ちあえるメンバーと環境を整えるというのが本当は一番大事なのだと思う。・・・何を夢みたいなことを。って言われそうだけど,本気でそうなったらいいのになぁ・・・そのためには教育にもっと国がお金出してくれないとね。

※1うまく文中で伝えられなかったので追記。無理やりカタカナ表記にするとそうなっちゃうから大混乱するんだけど,英語の発音の原理原則(ローカルルール)から理解したら別に理不尽でなくなる。(それでも理不尽に感じることもあるだろうけど。えっなんでそんなふうに決めたん?と母国語と比較して思ったりすることは,あるよね。)



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