読解力がついたらスマホ!?
「読解力がついたらスマホを持たせてあげる,っていう条件はどう?」
子どもにスマホを持たせるか否か問題が浮上しつつある中,私はオット氏にそう提案したことがあった。しかしそれは即座に却下され,「何かの報酬として,あるいは何かと交換条件にスマホを許可する,なんて論外。」とお叱りを受けた。ううう反論の余地がないけれど,「でも読解力は喫緊の課題だよ。」と苦し紛れに応戦。そしてもちろん「読解力は読解力でつけたらいい。スマホとは関係ない。」とにべもなく言われた。はい,その通りでございます。
前回スマホ(に必ずくっついてくるSNS機能)が色んなあり方や関係性をまるっと変えていっている・・・ということについて書いたのであるが,そんな中で生きていくために必須なのは「読解力」なのではないかと私は考えている。今私がここで言っている「読解力」とは,シンプルに「文章の意味を理解すること」である。なんというかこう,自分を棚上げして言ってしまう部分もあるのだが,SNS空間には「そもそも文章が読めていないのではないだろうか」という疑念を持たざるを得ない人がなかなかたくさんいらっしゃる(ように私には見える)。私自身はそこでコミュニケーションをほとんどとっていないので他者のやりとりを傍観しているだけなのであるが,それでも「文意を理解できない」人の多さには驚愕し,そしてそれが心ない発言だったりした場合には(別に私が言われているわけぢゃないのに)気持ちが荒む。SNS空間では「読解力がないとどうなるか」が可視化されてしまっているので,「我が子に読解力を!!」と切迫した気持ちを抱いていた。
そんな中で手に取ったのが新井紀子先生の「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(※1)だった。新井先生は「ロボットは東大に入れるか」のプロジェクトを進める中で,そもそも日本の中高生が「文章を読めているのか?」という疑問を抱く。そこで読解力を測るための「リーディングスキルテスト」を開発し,中高生を対象にした実態調査を行った。その結果は非常に厳しいもので,予想以上に多くの子どもたちが教科書レベルの文章を読むことができていないことが分かったのだという。・・・やっぱり!・・・そう,思った。そしてこの本の中にはリーディングスキルテストの問題が一部掲載されているのだが,人を馬鹿にするとか「自分はできる!」とドヤりたいとかそういうことではなく,「これができないってどういうことだろう・・・」とややホラーを感じる瞬間もあった。だから,それからというもの「読解力!読解力!」と騒ぎ,件の「スマホ許可トレード」発言にもつながったのである。
でも。
「読解力」って簡単に言うけれど,それって一体なんなの?
という疑問も常に持っている。実際リーディングスキルテストの例題を眺めていると,「文章の構造を理解して,そこに書かれてあることを正確に読み取れるかどうか」ということは測れても,「文章を読んで理解する」≒読解力なるものが,単にその力だけで構成されているとは(私自身は)思えない。もっとこう,文章を読んでいる時には「行間を読む」みたいなことが行われているような気がするのだが,そんな力は測りようがない。だって「行間を読む」としか表現できないようなことというのは,とどのつまり私たちがどんなことを(無自覚に)しちゃっているのか,ということが関わってくるからだ。
例えばリーディングスキルテストの,以下の設問について考えてみたい。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが,同じグルコースからできていても形が違うセルロースは分解できない。設問:セルロースは( )と形が違う。(※2)
まぁ丁寧に読めば正解がすぐ分かるのであるが,正直なところ私はこの文章を読んでイラっとする。この「イラッ」をもうちょっと詳述するとですね,まず文章がそのまま「すっ」と入ってこない感じがあるのだ。頭から順番に読んでいけば,そのまま理解がやってくる,という感じがまるでない。だから1回最後まで読んでから,「ん?」と戻ることになる。そうして,頭の中で以下のような整理を始める。
「アミラーゼ(酵素)」は,「デンプン(グルコースのつながったもの)」を分解する。
「アミラーゼ(酵素)」は,「セルロース(グルコースがつながったもの)」を分解しない。
なぜなら,デンプンとセルロースは形が違うから。
この作業を強いられることに,「イラッ」とくるのである。なんなら私が整理したように始めから書いてあればよくない!?とさえ思うくらい,なんというか,脳みそがこの作業を面倒くさがる感じ。だから最初は「文章の構造が悪い!」とプリプリしていたのだが,たとえば同じ構造でも以下の文章はすっと読めるんじゃないだろうか。
カッターという道具は木からできている紙を切るが,同じ木からできていても形の違うまな板を切ることができない。
設問:まな板は( )と形が違う。
2つの例題で何が違うのかというと,取り上げている素材の「馴染み度」である。カッターも木も紙もまな板も,生活の中でよく使うありふれたものである。一方「アミラーゼ」や「グルコース」やらは,まぁ少なくとも私にとってはカッターたちよりちょっと遠い存在で,それらにまつわる知識を無理やりどこかから引っ張り出してこないといけない程度の馴染み度である。だから例題を読みながら,「カッターは紙を切れてもまな板を切れない,うん,当然だよねー。まな板と形が違うもの?紙だわねー。」というふうに「常識(なじみのある知識)をあてにする」ことができる。なんならもう「木からできている」なんていう余分な情報は捨象して(読み飛ばして)設問に答えることができちゃうんじゃないだろうか。でも,「アミラーゼ」や「グルコース」は(私の場合)そういう生きた常識をあてにすることができず,理解に至るまでに「情報の整理」というステップを踏まないといけなくなる。もしかしたら,
「Aという物質はBからできているCを分解するが,同じBからできていても形の違うDを分解することができない。」
と書いてある問題を読むのと,そう大差ないような気がする。いやむしろ,上のように記号化されているとパズルを解くように答えをはじき出せるが,「アミラーゼ」問題は「文章を読みましょう」という構えを強いてくるぶん,面倒くささがアップするかもしれない。
だからまぁ,通常人は文章を読む時に「当てにできるいきた常識(知識)」がない状況,それゆえ「そこに書かれていること」だけを読まないといけない状況というのは,相当ストレスフルなんじゃないかと思うのだ。逆に言えば,いろんなことを「当てに」して文章を読みながら,「当てに」したいろんなことと結びついて新しい経験を生成していくことができた時に人は「理解できた」と思うのではないかと私は思う。
そういったことを考慮に入れると,アミラーゼ問題に誤答するか,回答に時間がかかってしまうのは,単に「文章の構造を理解していない」(≒読解力がない)からではないと思うのだ。文章の構造は理解できていたとしても,当てにできる常識(知識)が少ない場合は文章の構造を(意識にのぼらせて)理解した上で回答を出さないといけなくなるという点で,回答に要する時間が増える。その場合,認知特性上「情報を整理する」ことを苦手とする傾向があれば,負荷がかかってイラッとするだろう(私のことである)。その「イラッ」に耐えて問題に取り組めるかどうかは,「注意力」や「集中力」などこれまた脳の(意識の)特性が関わってくると思われる。つい「イラッ」に流されて途中で思考停止し,安易な答えをはじき出してしまいたくなる感じは,私にもよく分かる。
SNS空間で散見されるのも,「文章の構造を理解していない」人々というよりは,複雑な文章(誰かの発言というのは,教科書やマニュアルよりはるかに複雑であると思う)を落ち着いて最後まで読むことのできない人々なんじゃないかと思うのだ。そこに書かれてあることがすっと入ってこなくて,「イラッ」という衝動をコントロールできずに「きっとこういうことだろう」と安直な理解をしてしまう人。「文章を読む」というのは,文章の構造を理解するという知的な面ももちろんあるのだけれども,それぞれの認知特性や,衝動性も大きく関わってくるのだと思う。いらちなワタシも要注意だ。
そしてもう一つ重大なことは,書かれていることと,「当てにする」知識や情報との結びつきが論理的整合性に欠けていたり,自分オリジナルに偏ってしまう人。文章を読んで理解するということは,自分の背景(当てにする知識や情報,経験など)との適切な結びつきが求められる営為なのだと思うが,何が適切で,何が突拍子もないことなのか,客観的に判断することは難しい。勝手に結びついていくことの多くが「適切」で,かつ他者と共有可能であることのほうが奇跡に思えるくらいだ。そこの,「意味」が生成する場所で何が起こっているのか。非常に興味があるが,きっとまだ分かっていないことが多いのだろう。
そんなわけで,複雑な力が組み合わさったミラクルな「読解力」。
我がムスメに育んでもらいたい「読解力」。
でもそのためにどうしたらいいのか,余計に分かんなくなっちゃっている。
※1
新井紀子, AI vs. 教科書が読めない子どもたち, 東洋経済新報社,2018.
※2
答えは,デンプンです。
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