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学びかたと居かたを選べる社会へ

 京都の小さな私設図書館「梟(ふくろう)文庫」
 地域の中に、いろんな人が安心して過ごせる居場所があったらいいなと願って4年前に立ち上げた。そこでは地域の素敵な大人たちが、それぞれの好きなこと、大好きなことをワークショップという形で子どもたちにおすそわけしてくれている。何かを愛してやまない大人たちが手渡してくれる学びにはワクワクがいっぱい詰まっていて、子どもたちと一緒になって私も楽しい時間を過ごしている。

 そしていつの頃からか、梟文庫には学校へ行っていない子どもたち、学校がしんどい子どもたちがたくさん来てくれるようになり、ついには中学生の我が子も突然「おうちで勉強する」と宣言して学校へ行くことをやめてしまった。日本財団の調査(中学生対象)では不登校傾向にある子どもたちは全国で43万人で、10人に1人は学校をしんどいと感じているそうだから、今の時代いわゆる「不登校」は何も珍しいことではないんだけれども、それにしてもあまりに多い。身近で見聞きしている限りでは学校側も子どもたちに登校を強要したりはしないようだが、だからといって学校にかわる何か別の選択肢もなく、また遅れていく学習をフォローしてくれるわけでもなく、子どもたちは「日中の居場所」と「学習の機会」を喪失したまま放り出されているのが現状である。「フリースクールだって、塾だってあるじゃないか」と言われるかもしれないけれども、フリースクールだってよりどりみどり、自分に合う場所を選べるかっていうとそうではないし、公教育にかわる「別の何か」を選択すれば当然お金もずいぶんとかかる。「無理に学校へ来なくてもいいですよ。」という言葉は子どもを尊重してくれているかのようだが、本来子どもたちが等しく持っている「公教育で学ぶ権利」が保障されていないことをまるっと無視しているのは大きな問題だと思っている。だから学校にかわる「何か」、その選択肢が増えていくことも歓迎したい一方で、「学校」そのものが「しんどい」場所でなくなるように、「学校」の方をケアしていって欲しいと思っている。「そんなもんの方をこそ」という記事にも以前書いたが、不登校「問題」はその原因を子どもの側に求めて支援や介入をしようとしがちなんだけれども、実のところ治療や支援の対象とすべきは、多くの子どもたち・大人(先生)たちにとってしんどくなってしまっている、制度としての学校そのものなんじゃないだろうか。

 でも、何十年にも渡ってボロボロに傷ついてしまった公教育が手厚くケアされ、健やかさを回復していくにはこの先ものすごい時間がかかるだろう。それをのんびり待っていたら、子どもたちはあっという間に成人してしまう。目の前にいるたくさんの子どもたちがもうすでに、日々の居場所と学習機会を必要としているのだ。制度の内側からの変化を期待しつつ、そこからはじき出された&飛び出してきた子どもたちと一緒に「本当はこうであってほしい学校的なにがしか」を志向していかないといけない。

 というようなことを言うと、フリースクールやオルタナティブスクールなど別の制度が必要だっていう話になっていってしまいそうなんだけれども(もちろんそれを否定はしないが)、「学校に類似したリアルな場所・ハコ」を想定した制度が本当にこれからも先ニーズがあるのか?ということから改めて問われるべきだと思っている。子どもたちにとって「居場所」が必要だっていうのはその通りだが、その「居場所」という言葉が内包している意味は実に多様である。「とにかく子どもが大人の管理下で安全に過ごせる」場所、「子どもが(心理的に)安心して過ごせる」場所、「役割があって、帰属感を持てる」場所、「仲間と楽しく交流できる」場所など・・・親たちが「子どもたちに居場所がない」と言っている場合においても、日中の預け先がないことに困っているのか、子どもが居たいと思える場所を持ててないことに困っているのかで、手立ては当然変わってくる。年齢が低ければ低いほど「預け先」としての居場所ニーズは高いだろうから、本来であれば公教育でそこに資源を集中させ、クラスという大きな集団ではなく安心して過ごせる小さなグループに手厚く人員配置をするなどして、きちんと居場所を保障してあげてほしいと思う。

 しかし年齢があがってくると、「居場所」に求めるものは少しずつ変わってくる。正直なところ、「30-40人の子どもたちと先生一人」のクラス、年齢が同じっていうだけで狭い教室にギュウギュウ集められて毎日顔を突き合わせていないといけない場所っていうのは、想像するだけでしんどい。多様な子どもたちが多様なままで居心地よくいられるなんて、そんな構造ではとても無理なのだ。年齢があがれば「居場所」は1カ所ではなく分散していくほうが健全だし、リアルな居場所と同じくらい「マンガや小説、ゲーム」など趣味の世界や、インターネットやSNSなどデジタルの世界も、子どもたちにとって大切な居場所になっていく。むしろリアルな人間関係からそっと離れて一息つける場所は、心身の健康のために必要不可欠なのではないだろうか。大人だって、そうしている。

 だから学校ではない別の「居場所」も、制度として「居かた」を固定されてしまうと途端にしんどい場所になってしまう気がしている。むしろ「居場所」のひとつに、自分がどれだけ、どんなふうに関わりたいかを(大人と相談しながら)自分で考えて「選べる」、自分のそこでの「居かた」を自由に決めることができる、ということが何より大事なのではないかと私は考えている。それは学校に行っていない・行けない子どもたちへの特別な配慮という形をとるのではなく、全ての子どもが「自分で選ぶ」スタイルをとったらいいと思うし、そうすることでそれぞれの選択を「ズルい」だとかジャッジせずに「私は私、あなたはあなた。」と尊重することができると思う。

 さらに「居かた」と同じように、それぞれの子どもたちが自分に合った「学びかた」も選べるようになって欲しい。大人も子どももそれぞれ異なる身体を携えているという厳然たる事実から出発して、認知的な特性(世界を知覚し、情報を収集し、分析するスタイル)が一人ひとり違えば当然「学びかた」も異なるということを、今すぐにでも教育現場の共通認識にして欲しいと切に願っている。目から見た情報を覚えていやすい人、耳から得た情報を操るほうが得意な人、全体をぱっとみてから一つ一つに取り組むほうが効率的な人、一つずつ順番に手順を踏みたい人・・・こういった特性は「個性」というよりは、「身体的差異(体の仕組み自体が違う)」なのであるから、それに合わせた教育方法が多様に用意されていくといいな、と思っている。そしてゆくゆくは、子どもたち自身が自分の認知特性を知り、それに合わせた学び方を自分自身でカスタマイズしていけるよう、先生たちは手助けして欲しいと思う。子どもたちのそうした多様な学びはデジタルツールが支えてくれるから、高性能文房具としてそれらをどんどん使いこなしていけるといい(learning hacksだ)。またこれだけICTテクノロジーが発展しているのだから、多様な学び方に合わせた質の高い授業動画も今後増えていくだろうし、毎日学校へ通わなくても自宅などで学ぶことのできる環境が整ってくれば、「通学」という単一のスタイルに縛られなくてすむようになる。もちろん個別の学習だけではなく協同的な学びの場も子どもたちには必要だけれども、それは子どもたち自身が関心のあるテーマや課題を選んで、様々なプロジェクトに参加できる形がいいなと思う。こうなってくるとハード(物理的な場所)としての学校はもうそろそろその役割を終えつつあるんじゃないかと思うのだが、そんなふうに新しい学びの場をあちこちにデザインして作っていったり、新しい学びのインフラ整備をしていくなどの非常にクリエイティブかつ重要な仕事が残されている。

 梟文庫としても、(微力ながら)学習支援をしている立場としても、「学びかたと居かたを選べる社会」の実現に向けて、できることをしていきたいと考えている。相変わらず新しい制度(組織)を作っていこう!という方向には全くならないが、外側からじわじわ「学びかた」と「居かた」の枠組みを外して拡張していけたらいいな、と思っている。そしてその働きの一つとしてもうすぐスタートさせようと思っていることは、Youtubeで多様な学びかたの実例を発信していくこと。毎週梟文庫でひらいている「ラクエスト(ICTを使った自習室)」の子どもたちにも自分たちの学びを発信してもらうので、チャンネル名は「ラクエストチャンネル(略してラクチャン)」とした。私自身もこの1年あまり試行錯誤してきた、iPadを使った教材作りなどについて順次ご紹介していきたいと思っている。

 ぜひ応援してください。

ラクエストチャンネル始めます

#2020年代の未来予想図

初めて動画を作ってみました~。手作り感満載・・・そんでもって動画作るってすごい大変・・・Youtuberってすごいな。

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