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先日のことだった。 あるショッピングビルの1階でエレベーターを待っていた時のこと。エレベーターが到着してトビラが開くと,双子ちゃん用の大きなベビーカーとお母さんが乗っていた。ベビーカーはエレベーターの扉側に背を向けて乗せられていたので,子どもちゃんたちの姿は見えない。しかしお母さんがベビーカーをエレベーターから降ろそうとした時,「ごーん!!!」というただならぬ音がして,ベビーカーに乗っている(と思われる)子どもちゃんに何ごとかが起こったことが分かった。慌てて「大丈夫です
「読解力がついたらスマホを持たせてあげる,っていう条件はどう?」 子どもにスマホを持たせるか否か問題が浮上しつつある中,私はオット氏にそう提案したことがあった。しかしそれは即座に却下され,「何かの報酬として,あるいは何かと交換条件にスマホを許可する,なんて論外。」とお叱りを受けた。ううう反論の余地がないけれど,「でも読解力は喫緊の課題だよ。」と苦し紛れに応戦。そしてもちろん「読解力は読解力でつけたらいい。スマホとは関係ない。」とにべもなく言われた。はい,その通りでござい
「スマホいいな~」 とムスメが呟くようになったのは、この1年くらいのことである。「まだダメだよ。」「いつになったらいいの?」「お母さんが、もうスマホを持っても大丈夫だなと思った時だよ。」「え~。どうなったらいいの?」なんていうやり取りはさんざん繰り広げられてきているのであるが、具体的な条件は提示せずにはぐらかしている。実際「これだけの情報リテラシーを身につけられたら」とか、「こういう危機管理ができるようになったら」なんていうクリアな条件があるわけでもないし、それをどう測
梟文庫のおなじみプログラムに「汁飯香(しるめしこう)」というお料理企画がある。料理研究家土井善晴さんの「一汁一菜でよいという提案」にヒントを得て,「お味噌汁(汁)」「ご飯(飯)」「お漬物(香)」の3種類でシンプルなお昼ご飯を子どもたちと作って食べることにしたのだ。春休みなど長期休暇のあいだ,仕事で親御さんがいない子どもたちのお昼ご飯をまかなえたらという思いもあるが,それよりはむしろ「子どもだって,自分の食べるご飯を自分で整えられるようにならないとね!」というちょっと説教じみ
私は東京生まれ,東京育ちである。 それも大都会ど真ん中の,マンション暮らしであった。町内会なんていうのも(たぶん,記憶の限り)ないし,思春期を過ぎた頃には両親の事情で親戚付き合いもほとんど絶ってしまったものだから,「コミュニティの中で生きている」感覚はほぼゼロだったように思う。だからそんな私が今こうしてコミュニティの中で活動しているというのは,自分でも変な気がする時がある。だけどここへたどり着く道筋というのは確かにあったんだなぁと,先日新聞の取材を受けながらしみじみと感じ
「ひとりで東京に行く。」 この春6年生になったムスメはそう宣言して,おじいちゃんおばあちゃんの待つ東京へ旅立った。本当は一緒に帰省しようと思って文庫も閉館にしていたのに,ハハひとり置いてけぼり。国立科学博物館で人体展を見たかったのになぁとか,日頃ジェラシーを感じてやまない素敵な活動をしている場所を訪れてみたかったのにとか,ハハは色々未練たらたらのお留守番デス。だけど苦手な新幹線にひとりで乗ってみようって思えたこととか,お母さんがいなくてもきっと何とかなるって一歩踏み出した
今から少し前、ムスメ・友人の息子ちゃんA君と一緒に自宅近くを歩いていると、「あっ!お財布!」とムスメが声をあげた。見ると道端に、びしょ濡れのお財布。A君がお財布をつまみ上げてくれたので中を見てみると、なんとそこには1万円札が。おおお・・・と驚く一行、「よし、交番に届けよう。」と言って交番に向かった。 おまわりさんと一緒に中身を確認すると、2万円を超える現金のほかには何も入っていなかった。身分を証明するようなカード類はおろか、持ち主の手がかかりとなりそうなショップカード類
前回「あざとくてもいいから、自己責任論を回避する!」と言ったのは、患者さんとか人のためではない。 言ってしまおう。 自分のためである。 過去の自分のため、今の自分のため、未来の自分のため。 「そうであったかもしれない」自分のため、は「現在の他者のため」、と言おうと思えば言えなくもないかもしれないが、それはそれとして。 今回は、私がそのように考えるようになった経緯についてお話してみようと思う。 かつて私は「自分の力ではどうするこもできん!」