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子どもの意思を尊重するっていうけれど

 今から少し前、ムスメ・友人の息子ちゃんA君と一緒に自宅近くを歩いていると、「あっ!お財布!」とムスメが声をあげた。見ると道端に、びしょ濡れのお財布。A君がお財布をつまみ上げてくれたので中を見てみると、なんとそこには1万円札が。おおお・・・と驚く一行、「よし、交番に届けよう。」と言って交番に向かった。

 おまわりさんと一緒に中身を確認すると、2万円を超える現金のほかには何も入っていなかった。身分を証明するようなカード類はおろか、持ち主の手がかかりとなりそうなショップカード類も何一つない。拾ったお財布は小銭入れというわけでもなく割とちゃんとしたお財布だったのだが、現金だけお財布に入れて持ち歩いていたのだろうか。どういう経緯があったのか謎だらけだったが、こんな大金をなくしてしまった落とし主はさぞ青くなっているに違いないと不憫に思った。

 一通りの確認が済んだあと、「もし落とし主が3ヶ月を過ぎても見つからなかった場合、ここにある現金をもらう権利が発生します。どうされますか?」とおまわりさんに尋ねられた。聞いている子どもたちのために詳しく説明を求めると、「落とし主が見つからなかったらお金をもらうことができます。でも『いりません』と権利を放棄される方もいます。その場合は税金として使われます。」とのことだった。子どもたちの顔を見ると、「どうするんだろう。」という顔をしている。拾ったのは子どもたちだし、色々考えて意見をまとめるいい機会だなとも思ったので、「帰ってから子どもたちと相談して決めてもいいですか?」とお願いし、ひとまず権利を主張して帰ってきた。

 「おまわりさんの説明、分かった?」と子どもたちに聞いてみると、「まぁ大体ね。」と言う。そこであのお財布を拾ったのはあなたたち二人だということ、もし落とし主が見つからなかったら二人がちょうど半分ずつもらえる権利があることを含めてもう一度事態を整理して話し、「税金って分かる?」と確認した。「うん、私たちが使うものに使うお金でしょ。」と、これもそこそこ理解している様子である。そこで「まぁだから、あのお金要らないよって言ったら税金として国のしごとに使われるってことだよね。」と伝えてみた。するとムスメは、「だからそれでもいいよね。だって、いつか私たちのためにもなるんだから。消費税10%にならないとか、そういういいこともあるかもしれないでしょ。」と言う。そこ!?とややずっこけそうにはなったが、まぁまぁ、巡り巡って自分たちの暮らしのためになるんだろう、という着地点に一応納得しているようだった。A君もそれを聞いて、「それでいいよ。」と言っている。おお、なんだか優等生すぎやしないか??

 そこで私はまぜ返してみた。「それも一つの選択肢。」とした上で、「でもさぁ、もらうか、もらわないか、の2つだけしか選択肢ってないかなぁ?どう思う?」と。

 「え?どういうこと?」と俄然興味津々の子どもたち。そりゃそうだ、お金が欲しくないわけない。「あ、そうか。半分だけもらって、半分は税金にしてもらうってことか。」「それいいね。おまわりさんはもらってもいいんだって言ってたし。」と欲が出てきたところで、「いや、たぶん法律上はもらうか、もらわないかしかできないよね。半分だけもらいますっていうわけにはいかない。」と伝える。そっかー、じゃあどうしたらいいのー?と戸惑う子どもたち。後から考えたらここでもうちょっと子どもたちに考えてもらってもよかったのになぁと反省したのだが、ここで私は第三の選択肢を提示してみた。

 「お金をもらって、その使い道は自分たちで考えるってこともできるよね。税金の使い道は色々あって何に使ってもらえるか分からない。でも世の中のためにいいことをしている団体はたくさんあるから、それを自分で選んで寄付するってこともできる。もちろん、自分のことに使うこともできる。」

 あぁそれいいね、そうしよう!とあっけなく決まり、結局権利を主張したままにした。あとはそれぞれまたその時に考えたらいい。オットは「えー、そんなの寄付なんてしないで自分で使ったら?」なんてムスメをそそのかしてみたりしているが、「お金欲しいなー」という当たり前で正当な気持ちと、「でも自分のためだけに使うのはなぁ・・」というためらいとの間で葛藤したらいいんだと思う。どこに折り合いをつけるかということに正解はない。

 ・・・と言いながら、「100%自分のために使う」という決断をムスメが下した場合、「よし、それもあなたの権利!」と顔を曇らせないで言えるか自信がなかったりするのだが。つい、「ほら、あなたが興味ある動物愛護の団体がこんなことしてるよ・・・」なんて誘導してしまいそうで、むしろ親としての私に葛藤の修行が必要である。子どもの意思を尊重する、って言うのは簡単だけど、本当のところは「もんもん、もやもや」とのお付き合いでタイヘンなんだよね・・・

 というところで話題が変わってしまって恐縮であるが、「お洋服」ひとつとってもムスメの意思を尊重するのが難しい時がある。本当につい最近まではそれなりに好みがありながらも、私がそれをふまえた上で適当に買った洋服を文句言わずに着ていたムスメ。でもここのところティーン雑誌を熟読し、あの店のあの洋服、あのバッグがいい!と言いだした。それも時々油断すると「あ、今日上から下までオール無印だ。」なんていう日があるくらい控えめファッションを好むハハからすると、「なんかもう、その変な筆記体のロゴだけで嫌。」みたいな洋服がいいと言ったりするので悩ましい。着るのは私じゃなくて、完全に別個体のあなたなのだからどうだっていいじゃないか。そう思うんだけど、つい渋い顔で「ええー、そんなのがいいの?」なんて失礼極まりないことを言ってしまってあとから猛省する。この冬バーゲンに行ったときも、でーんと筆記体ロゴが入ったリュックサックを買うと言うものだから、「決めるのはあなただけど」とズルい前置きをした上で「バッグは高価なもので長い間使うことを考えると、好きなブランドって変わっていったりするし、ロゴが大きく入ったものでいいのかなぁ?」と疑義を挟んでしまった。あれこれ見てまわって熟考した結果「これがいい!」と言っているムスメ、正しいことを言うハハに返す言葉もなくうっすら目に涙を浮かべていた。そうして、ああ、また余計なことを言ってしまったと私も一緒に落ち込む羽目になったのである。最終的にはお気に入りのリュックが見つかりウキウキのムスメだったので、「お母さん、あんなこと言ってごめんね。」と謝ると「いいの、いいの!おかげでこっちのリュック買えたし!」と許してくれたが、いかんいかん。
甘えてたらイケナイ。こういう小さな積み重ねが、世に言う毒親とか重たい母へ通じる道なんだろうなと思う。

 拾ったお金の使い道にしても、お洋服にしても、「いま」だけを切り取ってみたら「うーん・・・」と親として悩ましい決断を(子どもが)するかもしれない。でももっと長いスパンで考えてみると、自分が何かボランティアをした時に他者から応援してもらえて嬉しかったという経験をして「私も寄付しよう」と思う時がくるかもしれないし、好きだったブランドの熱が一気にさめる経験をして「やっぱりブランドロゴの入ったバッグなんか買うんじゃなかった」と思うかもしれない。もちろん親の想像なんかをはるかに超えて、彼女なりのいいお金の使い道を閃いてくれるかもしれないし、(私とは違う)ブランドとのお付き合いをするかもしれない。そんなことはやってみなければ分からないし、彼女に委ねてみなければ分からないことなのだ。失敗したり、あるいは「もっといいこと」が起こるかもしれない可能性を奪ってはいけないのだな、とやはり思う。

 「なにが起こるんだろうなー」とワクワクしてオモシロがってたらいいんだな、きっと。

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