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羊を絞めて振る舞う、遊牧民文化キルギスのソイの一日

遊牧民文化の国キルギスで出会った、ソイについて書きたい。ソイは「屠畜」と訳されるけれど、単に絞めるだけではなく、捧げるとか集うとか、もう少し広い文脈を含むものだと思う。

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「おじいさんの2回忌で、親戚が集まるの。来る?」と言って田舎の実家に連れて行ってくれた。
カラコルの街を離れること車で1時間。山があり湖があり、キルギスの田舎はどこを切り取っても美しい。

と言いながら景色に見入ってしまっていて、山も湖もない写真しか撮っていなかった。

着いたのは14時。長細い客間のテーブルにはサラダやお菓子が所狭しと並んでいる。一人また一人とやってきた客人が、そこに持参したお菓子やパンを乗せていくものだからもう溢れる。

年長者が一番奥に通され、コーランを読む。何度かコーランを読むのを挟みながら、食事は続く。

入口から遠い一番奥が上座で、席次を重視するのは日本と同じ。

しかし、本番はこれではない。庭の台所に行くと、大きな鍋で羊肉がゆでられている。今朝絞めて解体したものだ。キルギスでは、祝い事や大事な日には家畜を絞める(ソイ)。イブラヒムの忠誠に因んだ、イスラム教の文化だ。

この巨大な鍋は、タイ・カザンという名。タイ=小馬、カザン=鍋。つまり肉専用鍋。

肉を調理するのは男性の仕事。茹で上がった肉をたらいに取り出し、参列者全員に行き渡るよう分割する。「お尻の脂肪は年長の女性、骨付きの腿肉は年長の男性、脚は子どもたち」などと、部位ごとに食べるべき人が決まっているのだという。

羊をゆでるのは「沸騰してから2時間」。肉の扱いは熟練だ。

羊を取り出した後のゆで汁は、いい味が出ている。麺をのばしてゆでるのは、女性の仕事のようだ。

台所の方の支度ができた頃、参列者は別の部屋に移動する。客間では男女まざっていたけれど、ここでは男女わかれて円くなる。回ってくる水差しとたらいで手を洗い、コーランを読み、分配された肉の塊を少し食べる。

一人の塊がなかなか大きい。「お客さんだから」と私には特別大きいのをくれた。

みんな控えめに食べるなあと思ったら、ビニール袋が配られて、各人食べきらなかった肉を入れていく。家に持ち帰るのだ。

私たちが肉を食べる間、入口の方に忙しく手を動かして肉を細かく刻んでいる人がいた。どうも部屋の中で一番の若手。コンビーフみたいに細かくする。途中からこの家の男性が加勢した。

最後は、この細かく刻んだ肉を麺にまぜた「べシバルマク」を手で食べる。べシバルマクは、「5本指」という意味で、その名の如く5本の指を使って食べる。

羊のスープでゆでた麺が、肉と一体になってうまい。あれだけ肉を細かく刻んでいたのは、少しの肉を大勢の客人に平等に行き渡るようにするためなのだと教えてくれた。

手を洗い、コーランを読んだら、肉の時間はおしまい。ふたたび客間に戻って軽くお茶をした後、参列者は三々五々帰路に着いた。肉の袋を手にして。

私たちも帰宅。持ち帰った肉は、夕飯のおかずになった。
家に着くとお母さんはちょうど夕飯の支度をしているところで、マカロニと卵などを炒めたところに肉を刻んで投入。「Makarony Po Flotski(海軍風マカロニ)というロシアの料理だよ」と教えてくれた。肉が来ることを見越して今日はこれにしていたのだ。「子どもたちは、肉そのままだと食べたがらないから、こうやって料理するの」と。

こうして肉は、50人ほどの参列者のみならず、家で留守番していた各家の家族にも行き渡り、親戚一同のお腹に収まった。

遊牧民文化において、家畜の肉は、特別なものだ。家畜は、生活の糧であり資産なのだ。

羊が秋から春の間過ごす小屋。今は夏なので草原にいる。

だからこそ、とても、とても大事にその命をいただいているように見えた。絞めてから食べるまでの過程一つ一つに意味とルールがあり、すべての人に行き渡るよう細やかな注意が払われる。

右の方の三つ編みになっているのは腸。内臓もすべてきれいに処理して余さず食べる。

肉はもちろんおいしかったけれど、「おいしいね」なんて言うのもうすっぺらい気がして、言葉が出なかった。
動物がかわいそうとか、肉より野菜がヘルシーとか、そんな議論をはるかに超越した深くて分厚い何かがあった。

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