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ケニアのウガリと "近代的エネルギー"

ケニアの家庭で、3ヶ月ほど暮らしを共にしていた時のこと。その家族との毎日の食卓の中心にあったのが、「ウガリ」という練り粥だ。お湯にトウモロコシの粉をいれて練った、そばがきのような主食だ。
おかずがなくても何がなくてもウガリは必要、たとえ米がある日でもおじいちゃんは「ウガリはどこ?」と聞く。それくらい大事な、少し前の日本の白米のような存在だ。

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おいしいウガリを作る炎

ウガリづくりには「ゆっくりの炎」が欠かせない。

薪をくべ、大きくて重たい鍋を据え、お湯を沸かす。沸いたらトウモロコシ粉を入れ、穏やかになった炎で30分ほどもじっくり練る。

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「時間をかけてゆっくり加熱するのが、ふっくらおいしいウガリのコツなんだよ」。単調作業で飽きないのかと思うけれど、彼女はこれが台所仕事の中で一番好きだと言う。並んで座って火をながめながら、特に急ぐでもなく何するでもなく、ただそこにいられる平穏な時間が好きだった。

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呼び名は違えど、似たような練り粥の主食がアフリカ大陸全体的にある。
とうもろこし粉だけでなく、イモ類で作る西アフリカのフフ、ソルガム粉で作るボツワナのボホべやスーダンのアスィダなど多種多様。共通しているのは、薪や炭の「ゆっくりの炎」でつくるということだ。

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スーダンの練り粥「アスィダ」、ゆっくりの炭火で練る。

ケニアの家庭でもスーダンのおうちでも、台所にはガス台があるのに、練り粥は薪火や炭火で作る。

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スーダンの台所。おかずやお茶は、ガスで作る。

「おいしいウガリを作れることは、いいお嫁さんの条件なのよ」とケニアのお母さんは教えてくれた。いや、スーダンのお母さんも同じことを言っていた。台所の炎と仲良くならなければお嫁にいけない。

台所の炎はだめ?

ところで、世界ではこの台所の炎が改善対象となっている。

世界全体で目指すべき目標であるSDGsでは、エネルギーについて以下のように目標が定められている。

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”近代的”…。

近代的エネルギー(英語原文ではmodern energy)には、薪や炭火は含まれない。道仏の排泄物と同列に。ケニアやスーダンの家庭の「ゆっくりの炎」は前近代的なのだろうか。

なぜ炎はだめなのか

この目標の達成状況を図るための指標を見ると、"近代的エネルギー"の必要な理由が「健康」にあることがわかる。

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すなわち、室内大気汚染を起こすような燃料は改善すべき、薪や炭火や動物の排泄物を燃やしている人は電気を使えば健康被害が減らせる、という根拠だ。わかる。
それに"持続可能"については、増えすぎた人口がみな木を使ったら地球は困ってしまうだろうし。

その人は困っているのか

私が出会った限りで言うと、それらの燃料を使っている人たちは困っていなかった。むしろ台所にガスがあっても「ウガリは炎で作らなきゃよ」と言ってわざわざ薪や炭を選択していた。もちろん室内大気汚染で命を失う人もいるから、そういう人たちとは違う話だけれど。

これが"近代的エネルギー"のIH調理器になったら…それはもう形だけになったウガリを捨ててパンを食べ始めるときなのではないか。(とか言いながら日本人はかまど炊きのご飯から炊飯器に移行したけれど)

ちなみに東京のIHでウガリを作ることに挑んでみたけれど、疲れるし散らかるし時間もかかる割にびっくりするほどうまくできなくて、これはこの台所で作るもんじゃないと悟った。

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それでもやっぱりだめ?

SDGsは世界がみんなで目指すことを決めた目標だから、目標自体に議論の余地はない。目指すといったら目指すのだ。

だけれども、おいしいウガリと台所の安心な空気を生む台所の炎が、健康とか環境とかいう合理的理由を超えて私は好きだ。ただそこにいさせてくれる炎が尊い。

この世の中の非現代的・非環境的なところに、私の愛する暮らしがあったりもするから、世界共通の正しい目標にどう向き合えばいいのかちょっと迷いもする。

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スーダンの台所の炭火は持ち運びも自在。座ってしゃべりしながら作業する。




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