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みんな夢でありました・・・?

あの時代は何だったのだろう。
森田童子ばりにわたしも尋ねる。

誰かに背中を押されるように、幸福を見ていられた。みんなで肩を組みながら、流れに乗っていればそれでよかった。

それが突然ないものになるなんて、にわかには信じられなかった。
わたし達は長い間その残像を見ていた。中身はスカスカになってきていたのかもしれないが、表面上ではよく分かっていなかった。
バブルがはじけたといわれても、周囲の先輩や親が本当に困った顔をしているわけではなかった。少なくともわたしはそういう環境にいた。

失われた30年などと騒ぐのは、それらが過去のものになったからなのだ。渦中にいるわたし達にそんなことは分からない。分かるわけがない。「失われていく渦中」にいたわたし達にとっては。


一度に奪われたのではなかった。
気がついた時に、それはジリジリとすぐ近くまで迫ってきていて、一回のドロップアウトはもう人生の脱落者と同じだった。
会社にしがみついていなければ、二度と正規雇用は保証されないのだった。それこそが、人が人として心身ともに真っ当に生きていくための条件みたいになってしまった。

「将来なりたい職業は?」と問われた中学生が「公務員です」と口にして、大人になったわたしは唖然としたが、それもある意味全うな答えで、しかももしかすると正しいのかもしれなかった。

わたし達の時代は、ヘッドハンティングなどという言葉も流行り、上を目指そうと思えば努力してどんどん上に行けた。出世は嫌ったり恥ずかしいことではなかった。そこを目指す若者がたくさんいた。
上を目指せる、目標を高く置ける、成功(何を持って成功とするかは別として)している人間を間近で見てきてそこに到達したいという欲を持てた。

時代は変わり、今では誰も出世したいなんて口にしなくなった。生活水準が低かろうが(生まれたときから高い場所を知らない)現状維持、自分の身の丈にあった生活を送られば一番いい。

それに一体、まっとうな生活水準ってなんだろう?
水準とか平均なんて、誰が決めたというのだろう。
自分が今いる位置で過不足なく暮らしていければいいじゃないか、と。

昔が良かったなんて言っているわけではない。
人生ゲーム。
谷あり山ありということをみんな知っている。
だがその「みんな」が一致団結してなにか一つのためにやり遂げようとする時代はもう来ないだろう。
それをしなければ処刑されるような国の体制にでもならない限り、同じ方向を向いて目的を達成しようとはしないだろう。
そういう国のマスゲームは一糸乱れず美しい。芸術には恐怖心が必要なのかもしれない。


わたしは、普通に暮らしている40代とか50代の人に向けて書きたいのではないだろうか、なんてふと思ったりもする。
あんな時代だったけれど。
どんなふうに暮らしてきましたか? 
引きこもりにもならず、今でもしっかり自分の足で立っていますか。

夢や目標といった向かうべき方向を掲げていた頃は、苦しかったけれどそこに向かおうとする推進力を両方の翼に持っていた。
翼の羽根は、少なからず抜け落ちたり色も変わってしまったりしているけれど。
これまでの習慣や惰性や経験だけで、かろうじて飛行を続けてはいるけれど。

まだ、飛ぶことをやめてはいけない。
渡り鳥の先頭にいなくてもいい。後ろで楽な場所を選びながらでいいから編隊を組んで進んでいこう。

そうやって鼓舞したいのは、同級生などではなくきっと自分自身。ともすると日頃の生活にまみれて息を切らしている自分を奮い立たせたいからなのだろうとも思っている。

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