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欲張っても飲み込まれないくらい

お金のことを心配する胸中に比べたら、手元に少しはあったほうがいい。誰の役にも立てないことに比べたら、疲れるほど頼られることの方が嬉しい。他人様に関わらせて頂いているのだから、日々邁進したいと心から思う。

フリーランスの私にとっては、仕事の相談が来なかったり、頼られなくなったり、チャレンジできない環境やメンタルに陥るということが恐怖で、(大体考えすぎなんだけど)、やたらそわそわすることがある。全くもって暇じゃないんだけど、一瞬だけ暇になるとドキッとしちゃうみたいな感じ。

「でもそれって結構欲張ってない?」
炎天下の下、自分ちの庭でサングラスして、スイカにかぶりついていたら、胸の中までヒリヒリした。

「成長欲求」というものではないのか。
その欲求は健康的で合理的で、私にとっては最上級にキラキラ輝く魅力的なもので、掘り起こすかのようにして日々沸き上がらせていたものなのであって、どうしてそれを「欲張り」とかいう、なんだか利己的な表現に紐づけているんだろう、私の中のなにか。

「私が頑張ると、家族は寂しいな、いま。」と思った。

私が今のメンタルのまま、変えず、変わらずにただ進むことは、フルスロットルな日常への依存を深めるということで、真たる安心感を支える軸の部分は、カラカラとむなしく回るだけのような気がする。

「家庭」。
結婚しているとか、こどもがいるとかいないということは関係なく、パートナーと暮らしているとか、他者と暮らしている人はみんな家庭を持つ人だと解釈している。生業を巡らせる社会のほかに、和をもって暮らすべき場のこと。

家庭の「価値」について考えたことがあっただろうか。どうして生業のことにしか視点が重たくならないんだろ。どうして視野は、生業やそれを取り巻く環境やことにばかり広がるんだろう。なぜ家庭を、明日も当然そこにあるものだと思うのかな。

それを考え出したら、家庭というものが私に与える安らぎとか、安心感とか、何かあってもそこにあってくれるということ自体が、とても大切に感じて、自分はやっぱり「欲張って」いたなと思った。

行き届くどころか、手をつけていない部屋の掃除。雑に畳まれた洗濯物。買うだけ買って開いていない、娘ちゃんの絵本。投げ打っていたものが次々に目に飛び込んできてしんどい。冷凍食品だらけの夫の弁当についてもなんか切ないし、娘ちゃんの一番好きなメニューが「ふりかけごはん」であることは、もっと胸に刺さる。

器以上のことを性急に求めるから、焦るし不安になるんだ。「いやいや、もっとやれる」と思う時点で飲まれているし、それを本当に「やれる」フェーズに到達して、そこに努力が追従すれば、機会が迎えに来るのではないか。なんらかの形をもって。

世の中には、自己成長と家庭の調和と、さらには自分のビジュアルなんかも美しく整えてキラッと歩める方がごまんといるのだけれど、今の私はそういう器じゃないんですわ。残念ながら。

まずは家庭だ。家庭の価値をつなぐこと。家族にもその価値を与え、じぶんも受け取り続けることだろ。見栄とか、器以上の報酬とか、他者からの評価みたいなもの、それらを求めることは、今の私にとっては過ぎていることだ。受け取るなら、もっとさわやかで、ナチュラルで、ささやかでいい。

だから、今のままで「よくなくない」。
ふと訪れる空白に、手持ち無沙汰を感じるなら、与えられているものを丁寧にこなしていくが吉。時間があるなら、家族との時間に注ぐが大吉。

1年ぶりに感じたスイカの匂いが懐かしくて、去年の夏の始めはどうしていたっけと思い返したら、今より家族の時間が深かったような気がして悔しい。小さなところで焦って欲張ってる自分を、スイカのタネと一緒に吐き出してやりたい。

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