満たすことと与えること
自分を満たすの底なし沼感
スピリチュアル界隈、と括ってしまうとあれだけど、とにかく自分と向き合うととりあえず決まって「自分に優しくしよう、自分を満たそう」という文言に行き当たる。
自分と向き合うときは、たいてい心のどこかが傷ついているときが多いので、自分を満たすっていうのは傷をきちんと手当てしてあげる行為に似ていると思う。それが何でできた傷なのか自分で把握して、必要な手当てをする。何でできた傷かわからなくても、そこに傷があったのだとわかってあげるだけで、勝手に癒えていく傷もある。
そんなこんなで私はこの数年間、自分を満たすことに注力していたのだけど、つい最近「与える」ということについても考えるようになってきた。
それはとある方のインスタグラムに書かれていたことにハッとしたからだった。
自分を満たすことをとにかく考えてきた。
ずいぶん満たし方もわかるようになった。
だけど、「あ、これ果てがねぇな?」ということもなんとなくわかりはじめた。
傷に同じように絆創膏を張り続けてる感覚、というか。同じところの傷を確認し続けている感覚というか。
もはや私が確認するから傷があるのでは?
私は傷を確認したいだけで、そこに傷はもうないのでは?
というような、そんな感じ。
私に与えられるものは、なんだろう
そんなことはあんまり、というかほとんど考えたこともなかったように思う。
いや、たぶん満たすことを知らなかった自分は、与えることを考えたりもしていた。
だけどそれは与えるかわりに、なにかを貰おう的なやつで、今の意味の与えるとはまた違うように思う。
私は今娘を育てていて、娘に授乳していて、物理的に自分の血を分けている。人間界でいうところの与えることの最たる例な気もする。
だけど、それ以外には?
私に与えられるものは、なんだろう。
答えは見つからないけれど
すぐコレと答えは見つからないけれど、とにかく何が与えられるかと考えることは、自分の不足のなかでぐるぐるしなくなることだ。
これが難しいところで、「自分の不足に目を向けたくないがために」、「自分の傷から目を背けたいがために」、与えることを考え出すと、きっとうまくいかないように思う。
だけど、自分の不足ばかりに目を向けすぎても、ドツボにハマる。
やはり行きすぎはなんでもよろしくないのだろう。
まだまだ若輩未熟な私だけど、だから与えるなんておこがましいとも思うけど、自分に出来ることをやっていきたいなと思う。
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