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2052年、希望の色彩 第1章 インド

2052年。世界の人口は百億人に迫り、日本の人口は一億人を割ることが時間の問題となったこの時代──テクノロジーが発達したこの世界で生まれた楽器《タロス》を操る俺は生命の音を探し続ける。

2052年4月13日

《衝撃》という言葉が果たして正確な言葉なのかその時の私には判らなかった。しかし、今この場で私が感じている感覚をそれ以外の適切な言語で表すことはできそうになかった──。

私の耳に入ってくる音楽…一聴すると明らかに攻撃的で、刃物か棘のような鋭利な物質で肌に直接突き刺さしてくるような音。しかし、何故か同時に異常なほどに懐かしい。まるで生まれたときから──いやもっと前からその音を知っていたかのような不思議な安堵感を感じさせられる音だ。

強制的に覚醒させるかのように目の前の視界を色とりどりのスポットライトの明かりが照らし、無数の人が織りなす熱気が充満しているこの空間の中で、体の奥深くまで深々と浸食してくる空気の波が絶えず私の心や感情を激しく振動させるのだ。

フロアの後部に設置されている私のいるテーブル席から少し前方──十メートルほど離れた場所で親友のサトコが踊っているのが見える。私と同じ二十歳のサトコは若々しい肌に若干汗を浮かべながら茶色の軽くカールした髪をかき分けて体を動かしている。一時だけ目が合い、彼女が軽く微笑を浮かべたように見えたのだが、本当に笑いかけてくれたのか──それとも私の感覚が作り出した幻想なのか明確に判断できなかった。それほど現実感の乏しい感覚の中で私はその空間の中に浸っていたのだった。

先月、《あのこと》が発覚してから塞ぎがちだった私を見兼ねて、親友のサトコが強引に外に連れ出してくれたのが三日前だ。ただし外とはいってもそれは日本のことではなく──さすが行動力のあるサトコと言うべきか、六千キロ近く離れたインドまで私を連れてきたのだ。高度に発達した──しかし同時に酷く騒がしい見慣れない街並みや、独自の活力と混沌を感じさせるニューデリーの空気の中で徐々に生気を取り戻した私の手を引っ張りながら──本人も対して詳しい訳でもないはずなのに──様々な場所を陽気に案内してくれるサトコには本当に感謝しかないなあ、と私は感じていた。

そして今日の夜、ようやく食べ慣れてきたスパイスの効いた夕食の後に、ニューデリーから車で二時間ほどの距離にあるこのクラブ《クラブ42》に到着したのだった。

普段クラブに行かない私もどこかで名前を聞いたことがあるこのクラブは二年ほど前にこのノイダ地区にオープンしたのだが、まだ新しいながらも四千人を収容可能な規模と演奏される音楽性の高さで瞬く間に有名クラブの一つとなった。湿気を感じさせる暑さと埃ぽい空気の中、都心と比較すると若干落ち着いた地域に建設された黒塗りの巨大倉庫にも見えるこの建物は、まるで自信に溢れているような、少し威圧する風貌を建物の入口に降り立った私に感じさせた。

──そして入場から数時間経った今、私は当初予想もしていなかった感情に揺さぶられ、木製の黒ずんだ丸テーブルに寄りかかりながら未知の音を感じているのだった。

「もしかすると…まだ変えられるのかもしれない…」

大音量の中、自分の心拍の音よりも微かな、誰にも聞こえない小さな声量で呟いた私は、もう少しだけこの感覚に浸りたいと思い、眼を閉じて脳が知覚するままに音の波を深層で感じていたのだった。

─────

「今日は結構いいかもな」とカズは思いながら、スピーカーから大音量で流れる音を注意深く聞いていた。

今となっては顔なじみとなったサティヤが運営するこのクラブ──《クラブ42》で演奏するのは何度目だろうか。父が音響エンジニアで、彼自身も高度な技術知識があるサティヤが自身でデザインしたこのクラブは、このクラスのハコとは思えないほどバランスの良い音響環境を作り出す。俺はこのクラブがオープンした当時からずっと気に入っていた。

血筋や遺伝というものを必要以上に信じる訳ではない。だが、日本人の母とインド人の父から生まれた俺は、ここインドの地の食事も空気も割と性に合い、東京から離れて数ヶ月に一度程度この場所で演奏することにしている。

演奏…とはいっても実際にその場で何か手を動かすことは殆どない。昔からあるクラシックやポピュラーミュージックであれば、歌手や演奏家がその場で演奏を行うことも未だ多いが、《タロス》と呼ばれるシステムが自動演奏を行い、俺はダンスフロアから五メートル以上高いエリアにあるVIPルームのすぐ近くにあるモニタリングルームの椅子に腰掛けながら、タロスの奏でる音を聞いてその演奏をサポートしているのだ。

先日タロスに《喰わせた》インドの打楽器──タブラのデータが良かったのか、それとも何かの偶然なのか──センサーから取得したクラブ42の温度や湿度、踊っている観客の表情から動きまで膨大なデータを元に巨大スピーカーからリアルタイムに出力されたタロスの発する音の波動は徐々に──しかし着実に観客を高揚させているのが分かる。

部屋の右側から目に入ったVIPルームでは、サカグチが革張りの豪華なソファに深く腰掛けながら、数人の若い女と一緒に酒を飲んでいる。こちらを向いて何かを叫んでいたが、俺は敢えて聞こえないふりをしていた。俺はサカグチの能力を認めており基本的に信用している。然しそうだとしてもこの場でこの瞬間に彼と共有すべきことは何もない気がしたのだ。

俺は生命そのものの音を生み出したいと昔から思っていた。

ただ綺麗だったり気持ちを高揚させたり体を動したくなったりするだけでなく、生命それ自体を震撼させるような原始的な音──それを求めて俺は演奏を続けている。当然、半分機械に任せているようなこの作業が、生命という価値に到達するのか俺に確信はない。しかし、クラシックやポピュラーミュージックといった過去何百年に渡って膨大な数の音楽家が知恵を絞り命を削ってきた歴史の先にはこれ以上の官能は見当たらなく、それが俺を憂鬱にさせていて──その代替として存在する、人間の感覚と機械の処理能力を融合させたアウトプットでしか新たな可能性を見出すことはないと思うのだ。

──今は何時になっただろう。ちょうど日付が変わったくらいだろうか。

今日は届かないかもしれないし、それがいつになるか──果たして存在するのかも確信はない。だがいつか絶対に辿り着くんだ──そう心に誓い俺はクラブの中で踊っている音と人に再度意識を集中した。

2052年4月14日

左手親指の付け根の辺り、やや内側の辺りからメッセージの受信を《感じて》、俺はホテルのベッドに踞りながら薄らと目を開けた。

昨日の夜、正確には今日の朝にクラブからデリーのホテルへ戻り、部屋に設置された少し水流の弱いシャワーを浴びてからすぐに横になったのが午前八時。昨日は高分解性のカクテルしか飲まなかったのでアルコールが体に残っている感覚は全くないのだが、どうやら眠る前に左手に埋め込んだ生体チップの通知を切り忘れていたらしいことに気付いた俺は舌打ちをしながらベッド脇の時計に目をやった。

昼の二時。窓のカーテンの隙間からは強い日差しが優しく差し込んでいるのが分かる。なんとか手をディスプレイが付いた六インチのモバイル端末まで伸ばし、そこに表示されている名前を確認した。送信元はクラブ42のサティヤで、日本への帰国前に会わないか?という内容だった。浅い欠伸をしながら渋々体を起こし、夕方から空港に近いカフェを指定してメッセージを送信した後、掛け布団を体の横に退かしてから深く息を吐いた。

2052年。世界の人口は百億人に迫り、逆に日本の人口は一億人を割ることが時間の問題となったこの時代。各種のテクノロジーは着実に世の中の生活を変えて我々の日常に変化をもたらしていった。

大容量、超高速の無線ネットワークを常時利用することは当たり前で、中国TIC社が二十年ほど前に発表した高機能バッテリーと無線給電による常時充電技術により、昔は存在していた電源を取るためのケーブルすらもほとんど見かけなくなった。更に再生エネルギーとUSアース社提供の小型原子力による発電、建物や車を利用した蓄電による電力革命がこの流れを安定的に推し進め、現在では電力やネットワークについて意識する必要すらもなくなったといって良いだろう。

個人の趣向に沿った各種のモバイル端末や生体チップを介した情報のやり取りはお金の決済やセキュリティを始めとした様々な情報のやり取りを正確に且つシームレスに送受信し、最新技術に疎い高齢者や法令上生体チップを埋め込めない子供であっても、何かしらの簡易端末を使わなければ基本的な生活すらできない程度には拡がったのだった。

一時は懸念されていた食糧問題も、人工培養された肉や魚、加工された昆虫食などの食物がある程度安定して安価に提供できるようになり、宇宙栽培された野菜まで高級レストランの前菜として提供されている今ではほとんど心配されなくなった。

テクノロジーは人々の所有の概念も確実に変えていった。家や自動車の所有は一部の高級な住宅や車を除き確実に減少し、一般的な服や小物についても自宅──そもそも所有していないので自宅とも言えないのだが、大抵の人は数年間は同じ家を契約することが普通だ──から簡単に3Dプリンティングできるので、必要な時にいつでも製造することができる。

AI(人工知能)という言葉も十五年くらい前まではまだ盛んに言われていたが、システムが情報を取得して学習し、最適な形で提供することが当たり前となった世の中では特に意識されることもメディアで誰かが発言することもなくなっていたのだった。

このような世界の中で──否だからこそと言うべきか、俺のような職業が生まれた。

2039年12月、日本のゴトーインストゥルメンツという企業が《LCー01》という名前のソフトウェアを発表した。このソフトウェアは前世紀から存在する電子楽器であるサンプラーやシーケンサーが進化したものとも言えるのだが、圧倒的に違ったのはその音源生成力とリアルタイム性だった。

過去にサンプリングされた──またはその場で録音された音をこのソフトウェアへ登録することでソフトウェア上で自動解析を行い一つの音として保存する。こうして登録された膨大な数の音は登録者が過去に喰わせた内容によって──既存の登録済の音と融合させながら──ある一つの独立した音源となり、それらが集まってオリジナルな演奏家集団となるのだ。更にこのソフトは映像や音声、温度などのセンサーから外部の情報を取得し、その情報に応じた最適な音楽をリアルタイムで奏でることができる。そのため、特別に対応されたクラブのような場所で多数の観客を《見て》《感じて》最適な出力をすることが可能な、正に次世代の音楽ツールとして発表されたのだった。

当然、発表当時はそこまで精度や能力が高いものではなかったのだが、当時九歳だった俺は何故かこの機械に惹かれ、直ぐにのめり込んでいった。その後、世界中の会社から類似製品が発表され、この一連の機械はギリシア神話に登場する自動人形の名称から《TALOS(タロス)》と呼ばれるようになったのだった。このタロスは製品ごとの違いだけではなく、所有者が喰わせた音源や過去に見せた映像など、今までに入力した内容によって生き物のように音が変化する。そのため仮に同じ場所、同じ時間に二つのタロスを再生したとしても絶対に同じ音になることはなかった。

現在、このタロスを使った音楽は一つのジャンルとして確立され、多くのクラブがタロスの規格に最適化されたセンサーを設置した。その流れの中で多数のプロの音楽家も生まれた。俺もその一人として東京で活動をしながら、たまに今回のように海外のクラブに呼ばれて演奏をする日々を送っていたのだった。

通信を利用した遠距離での演奏もできなくはないのだが、不足の事態に自身でサポートできないことから俺は現地での依頼以外は請けないようにしていた。なにより俺の目的を達成するためにはその場にいないと知覚できないような気がしていたのだった。

「やあ、カズ。よく眠れた?」

サティヤ──四十代前半の恰幅の良いインド人である彼は、持ち前の屈託の無い笑顔で褐色の顔の表情を崩しながら、チェックのシャツとジーンズというラフな格好で喫茶店の前で出迎えてくれた。俺は乗車してきた自動運転車の認証インターフェイスへ左手をかざし決済を行った後、サティヤと握手を交わして店の中へ入っていった。

俺が指定したレストランは、サティヤといつも行く日本風の喫茶店だ。正直、日本に帰る直前に何故敢えて日本風の店に来るのか自分自身でも不思議だが、彼が俺とこの場所で会うのが好きなので、毎回ここを予約するようにしている。彼曰く「日本人と来るといつもより美味しい」らしいのだが、案外外れてもいないのではと思っている。各種の食材が人工培養可能となり、レシピの情報も簡単に手に入る現在では純粋な味の違いはどこで食べようとそこまで変わらない。しかし、現地で食べる食事やそれに近い感覚を感じさせてくれる環境は味覚以外の人間の五感に少なからず影響を与えるようで、その再現は現代のテクノロジーをもってしても難しいのだ。現在は世界第二位の経済規模となったこのインドの地で日本風喫茶店に入っていくサティヤを見ていると、何か微笑ましい気持ちを覚える。

喫茶店の入口から中に入った俺達は、日本的なシンプルで落ち着いた内装に囲まれた十席ほどのテーブル席の左奥から二番目の席に腰掛ける。設置されたディスプレイから日本茶をオーダーしたところでサティヤは口を開いた。

「カズはさ、サカグチのことで最近何か聞いたことある?」

彼は何気ない口調で尋ねてきた。彼の英語は若干インド訛りを感じるが、はっきりと発音してくれるので聞きやすい。

「どういう意味…?」

「実はちょっと噂話があってね…。サカグチが危険なビジネスに絡んでいるって話を聞いたんだ。詳細は解らないけどクスリ関係じゃないかって」

サティヤは少し声のボリュームを少し落としながら俺の目を真っ直ぐに見て話した。現代においてクスリ──所謂麻薬や覚醒剤などの依存性薬物は依然殆どが違法ではあるのだが、物質自体の依存性のコントロールがある程度技術的に可能になってからは一部の薬物は合法化された国が多い。

「それは非合法ってことかな?」

「解らない。だけど、サカグチはああいうタイプだし敵も多いからさ。彼を疎ましく感じている誰かが流したデマかもしれないよね」

彼自身もあまりサカグチのことを快く思っていないことを知っている俺は、苦笑いを押し殺しながら話を聞いていた。

「まあ、確かに。でも、俺はサカグチさんのことは少なくとも仕事面では信頼してるよ。そもそもサティヤのことを紹介してくれたのもサカグチさんだしさ」

──サカグチの仕事は《コーディネーター》と呼ばれる仕事だ。簡単に言うと情報や物品、人物など何かを欲している人とそれを提供可能な人を仲介し紹介料をもらう。そのため人脈と交渉力が生命線になる。事実、サカグチの人脈は驚異的だ。一体何処で繋がりを構築しているのか不明だが、彼に相談をすれば俺が求めている人や情報が確実に入手できた。持ち前の胆力と数ヶ国語を操る言語力も持ち合わせた彼はコーディネーターという一見不確かな──しかし現代に於いて非常に重宝される仕事で少なくとも俺の知る限り最高の結果を保証してくれる人間だった。

「解った。あくまで噂だからね、何か具体的な情報が手に入ったらまた連絡するよ」

俺はその返答にお礼を言って、ロボットによって運ばれてきた日本茶に口をつけた。その後は他愛もない話──日本の文化、特にサティヤの好きな京都の話や彼の家族が彼に贈ったプレゼントの話をして時間を潰した後で俺達は別れた。

運転席のない二人乗りのシルバーの自動運転小型車に乗ってデリーの空港に向かう途中、俺はサティヤとの話を思い出していた。

サカグチは大小沢山の顧客を抱えているし普段から決して安くはない紹介料を取っている。そのため彼が金銭的に困っているというのは考えにくい。然るに敢えて危険なビジネスに関わる必要性がなくサティヤの語った噂を信じる気持ちには正直なれなかった。また俺は仕事上で音源を収集するために色々な音楽関係者とやり取りをすることも多いが、仕事上で必要以上に他人とのコミュニケーションを取らない俺にとって事前情報の伝達を過不足なく正確に行ってくれるサカグチの存在は非常にありがたかった。そのため多少の危険な噂話くらいで簡単にサカグチとの関係を切るつもりはないのだ。ただ、彼はプライドが高く相手によっては非常に相性が悪いこともある。そのため偶にトラブルを起こすことも知っている俺としては何か嫌な予感があったのも事実だが、同時に今頭の中で考えたところで何が解決する訳でもないことも解っていた。

俺は頭の中をリセットしようとして車窓から流れていく膨大な長さの車列が連なった騒がしい景色に目を遣ったのだった。

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