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2052年、希望の色彩 第4章 UAE / 日本

2052年。世界の人口は百億人に迫り、日本の人口は一億人を割ることが時間の問題となったこの時代──テクノロジーが発達したこの世界で生まれた楽器《タロス》を操る俺は生命の音を探し続ける。

初めての方は第1章からお読みください。


2052年9月12日

朝、俺はホテルのクイーンサイズのベッドから起きて強い日差しが溢れる窓のカーテンを開けた。アイボリー色の落ち着いた色のカーテンの隙間から窓の向こうに見える景色は、砂漠と真っ青な空が目線の遠くで交わり綺麗な地平線を描いている。──俺はこのアブダビの風景が好きだった。

この国へ来るのは三回目だ。無機質な広大な砂漠が拡がり、その中に構築された丸い屋根が特徴的なイスラム建築の豪華な建物。そしてそのすぐ横には一気にタイムスリップしたかのような最先端の高層ビルが並ぶこの街を見ていると、他の国、他の街にはない極度に人工的な──それと同時に、どうにかして自然に抗う人の姿を見るような感傷に浸るのだ。

結局マキとは一緒に来ることが出来なかった。前回途切れたメッセージのやりとりから、その後も連絡はとれず、仕方がなく俺は一人分のフライトのチケットを購入して、六日前に成田から飛行機に乗ってこの地──アラブ首長国連邦の首都アブダビにあるアブダビ国際空港に到着した。

近年、石油の需要が減少してから経済的な停滞が懸念されたこのアブダビだったが、いくつかの継続的なテクノロジーへの投資が成功し、ドバイと並び中東の重要都市として成長し続けていた。中東を始めヨーロッパやアフリカを中心に有力な外資企業がオフィスを構え、多数の企業が商業のハブとして利用しているこの都市は、独自の魅力を備えた世界有数の都市の一つだ。

アブダビ到着の翌日午前中に、俺はクラブまで車で移動した。シェイク・ザーイド・モスクから車で西に三十分ほどの距離にあるクラブBREWは、曲線が印象的な銀色の宇宙船のように見える巨大な外観の中に広大なクラブフロアが形成されていた。一万人くらいは収容できるのだろうか、思わずそのスケールに圧倒されながら現地のスタッフとの挨拶を済ませた後、この真新しいクラブでリハーサルを始めた。万全に準備はしていたものの、やはり現地で音出しをしてみるといくつかの差異があったため、まずはその調整に数日を費やした。その後は確実にタロスの音がクラブのフロアの環境にフィットしてきている感覚があり手応えを感じていた。

パーティの前日となるその日も俺は翌日にオープンを控えたクラブへ立ち寄り、本番に向けた最終調整を行っていた。夕方頃に俺が準備を終えると、ちょうどヒデトも同じく準備を終えたところだったので、俺達は二人でホテルのバーへ行くとこにした。今日は夜に出演者や招待者限定のレセプションパーティがあったので、その前に軽く軽食を取りながら飲むことにしたのだ。ヒデトには前からトリプルSを使った今回の試みを伝えていたのだが、実際にリハーサルを聴いて俄然興味が湧いたようで、色々と技術的な質問をしてきた。俺も探りながらの試みなので、なかなか回答に困ることもあったのだが、ホテルの十二階に設置されたバーのテラス席に設置されたオレンジ色のソファに座りながら異国の地の景色を見て彼と色々話していると、とてもリラックスできた。

ヒデトと別れた後、レセプションパーティにまだ少し時間があったので、軽くシャワーを浴びたいと思って俺はホテルの部屋に一人戻っていった。ドアを開けて部屋に入りベッドに腰掛けたところでメッセージを受信した通知に気がついた。ヒデトが何か言い忘れたのかと思い、端末のディスプレイを取り出して確認する。

それはマキからの久しぶりのメッセージだった。

「私は昨日、このメッセージを送信予約しておきました。というのも、私はこのことをあなたに直接伝えるのが怖くて、直ぐに伝える勇気が出なかった…。でも、今日手術をする前に、どうしてもカズの演奏の前に伝えたかったからこのような形で送ることにしました」

俺は最初何を見ているのか全く理解ができなかった。《手術》という言葉がどれほどの意味なのか全然理解できなかったし、同時に自分がその意味を深く考えるなという信号が頭の中で強く発せられているような気がした。

「私は前回あなたと会った時に、私の病気が深刻じゃないと言っていたと思いますが、ごめんなさい、それは嘘でした。実はあの時、いえ、もっと前から私は自分の病気が私の声を奪ってしまうことを知っていたのです」

俺は自分の心臓の鼓動が早くなるのを知覚していた。ドクドクと徐々に早く、大きく聞こえてくる自分の鼓動が苦しく、思わず唾を飲み込んだ。直ぐに次のメッセージが届く。

「カズと出会う前の今年の初め、私は体調を崩して病院で診察を受けていました。そこで知らされた病気は……病名なんでどうでもよいね。でも、その病気はAMRという薬に耐性のある菌が喉に住みついた病気で、現在の医療でも治療法がなく、色々試したのですが声帯を削除するしか進行を止める方法はありませんでした。あ、ちなみにカズにはうつってないからね。この病気は正常な人はかからないみたいなんだ。私の場合は、小さい頃から免疫が弱かったのでこの病気にかかってしまったみたいです」

「病気が発覚して、私は落ち込みました。なんで自分なんだろうって。そんな時私の友達…サトコとは会ったことあったっけ?とっても面白いコで私の親友です。彼女が旅行に誘ってくれたんです。正直、私は旅行にあまり乗り気じゃなかった…。だって、この病気はとても私にとって苦しくて…確実に私の声を奪っていくんです。そんな時にどこかに出かけたいとは思えなかった。でも、彼女は私を元気づけようと連れ出してくれました。そして、そこでたまたまカズの音楽を聞きました。そう、あの四月のインドでの出来事です」

「あの日の夜、私は今までの人生で感じたことのない感情を覚えました。なんていうんだろう…あの日のことは今でも鮮明に思い出すんだけど、どうしても上手く言葉にできない。でも、もし言葉にするのなら、生きる希望を与えてくれそうな音楽。まるで、私に負けるなって、希望を持てって言われているみたいだって。本当にそう思ったんです」

「私はその時に変われるかもなって思いました。病気が消えることはなくても、この病気と闘って、治すことができるんじゃないか、なぜかそう思ったんです。そんな気持ちの後、日本に帰ると知人から仕事の紹介を受けました。そう、あなたの録音の仕事です。まさか旅行中に私が聞いた音楽を作った人だったとは思わなくて──あれ、本当に驚いたんだからね。そうは見えなかったかもしれないけど」

「あなたとの録音はとても楽しかったです。だって、自分が元気をもらった音楽と…自分が生きる気力をもらった音楽と一緒に歌えるんだからね。でも暫くすると容態が悪化してしまったので、私は入院することになりました。…あと、ごめんなさい。もう一つ嘘をついちゃいました。私はあなたに病院を移ると言いましたが、移ったわけではないんです。ただ、どうしても声がでなくなった私を見てほしくなくて…私が元気になってからお見舞いに来てほしいと思ってました」

「でもね、ちょっと今回はダメだったみたいです。日々自分の声が出なくなっていくのがわかるんです。歌を歌いたくても自由に声が出ないのはほんとにつらいです。ただ…カズにはこれだけは知ってほしい。私はあなたにとても感謝しています。もしカズに会っていなかったら私は今より絶対弱ってた。私はあなたとあなたの音楽のおかげで、希望を持って生きていられたんです。それに、もし私の声が出なくなっても、私がこれから歌が歌えなくても、私はあなたの音楽の中でずっと新しい声を生み出していくんです。これってすごいことだと思わない?」

「実は一ヶ月くらい前に私の歌声をこっそり録っておきました。なので、その時の歌をあなたに送ることにします。入院してからあなたの録音を続けられなくてごめんなさい。でも、もしこの音があなたの音楽と一緒に素敵な音を奏でてくれたらうれしいです」

俺は、涙で眼が曇ってしまい、ディスプレイを見続けることができなかった。暫くそのまま気分が落ち着くのを待って、改めて画面を見ると音声ファイルが添付しているのが解る。ゆっくりと手を動かしそのファイル名を選択すると、彼女の歌声が聞こえてきた。多分、病院のどこかで録音したのだろう。ノイズの多い環境の中で彼女の声が聞こえる。その声は──普段聞き慣れた彼女の声ではなかった。とても弱々しい、今にも消えそうな声。でも、俺はその声の中にとてつもない強さを感じた。病気に負けずに生きようとする姿。生きる人の美しさが表現された音だと思った。

メッセージは最後に「ありがとう」と送信され、その後続くことはなかった。


2052年9月13日


その夜、俺は一睡もできなかった。彼女の送ってくれたメッセージを何度も読み返し、彼女の歌声を繰り返し聞いた。

ふと気づいたら時刻は朝の四時になっていた。俺はタロスを立ち上げて彼女の声を取り込むことにした。ホテルのデスクの前で端末の中に立ち上げたアプリケーションからインポートを選択して彼女の声の音声ファイルを選ぶ。直ぐに変換中を表すプログレスバーが表示され、暫く経つと画面上に彼女の声を表す音の波形が表示された。何気なく俺は音源の構成をする前に再生ボタンを押して何度となく聴いた彼女の声を再生する。すると、ふいに目の前が真っ白になって一つの光景が浮かんできた。

──ここは美術館だろうか。そこまで大きくない二十平米くらいの真っ白い壁に覆われた部屋に、スポットライトに照らされた絵画のような額縁がいくつも飾っている。ぐるっと見回すと四面に額縁が飾ってあり他の部屋へ移動するためのドアや通路は見当たらない。周りに何人か人が見えるが、何故か皆背が高く見える。──どうやら周りが大きいわけではなく俺が小さいようだ。ふと右手に重さを感じ、目線を右下の方に向けると、俺が十歳くらいの時に気に入っていた濃い青のバッグが視界の中に見えた。

これは俺の子供の頃の記憶だろうか。そう考えて改めて周りをじっくり見てみると、絵画だと思っていたものは額縁に入ったいくつもの写真のようだった。人や建物の写真が等間隔で並び、どれもどこかで見たことがある気がする。そう、これは全て母親の撮った写真だ。一歩づつ前方に歩き出し、大人たちの間をすり抜けて部屋の奥の方に移動する。部屋の突き当りまで進むと見慣れた一枚の写真が目に飛び込んできた。

そこには、俺の好きな抽象画のような写真があった。柔らかい肌色の背景の上にインクを垂らしたような不思議な模様が見える。その写真の直ぐ下に銀色の小さなプレートが付いていて、何か文字が書いてあるのが見えた。

そこには、母親の名前と──この作品の題名と思われる《希望の色彩》という文字が刻まれていた。

暫くそのプレートに目を奪われ、一時瞬きをすると景色が変わっていた。俺はホテルの椅子に座って彼女の声を再生する前と同様にタロスの画面を見ていた。エアコンの無機質な風の音が聴こえる──。どうやら音声の再生が終わったようで画面上には再生後に元の位置に戻ったのだろうか、先程と同じ音の波形が表示されていた。俺は椅子からゆっくり腰を上げベッドサイドにあった水の入ったペットボトルを手にとって一口だけ口に含んだ。

水を飲み込むと端末の前に戻り、音源の構成を実行するためのボタンを押下する。再び表示されるプログレスバー。俺はそれをじっと見つめていた。

俺はその間、先程見えた写真のことを頭の中に思い描いていた。

そう、そうだったのだ。

母はあの写真で生命を収めたかったのだ。柔らかな人肌のような背景の上に流れるように描かれた有機的な曲線。それは俺がいつも思い描くあるものと全く一致していた。それは俺が音楽に求めていた生命そのものの音と全く同じものだった。俺は無意識の内にあの写真を自分の音楽の理想の形と同化させていたことに気づいたのだ。

端末から機械的なデジタル音が鳴り、音源の構成が完了したことが解る。俺は動かずにずっと端末を凝視していた。──俺はこの音をクラブのフロアで聞きたいと思った。必死に生きて、美しく抗った彼女の声を、俺は光に照らされた場所の中でオーディエンスと一緒に聞きたいと思った。

その音は俺に希望を与えてくれるだろうか──希望の色彩を見せてくれるのだろうか。

俺は目を瞑り、写真の映像と彼女の笑顔を交互に思い出しながら、端末の電源を落としゆっくりと立ち上がった。

2052年9月21日

アブダビから日本に帰ってきて五日経った。九月の日本はまだ暑さが残っていたが、アブダビのそれと比べると遥かに過ごしやすく、ここ数日の適度に晴れた気候が気持ちよく体の隅々を潤してくれる。

アブダビのクラブでの演奏は成功した。俺は今でもあの時の光景を昨日のことのように思い出すことが出来た。

会場に着くと、メディアで見たことのある著名人や有名な演奏家も多数いて、熱気に溢れた華やかなムードの中パーティが進行していく。出番が回って来て、いつものようにモニタリングルームで機材のセッティングを行った俺は、軽く深呼吸をした後、いつも以上に落ち着いた感覚の中で演奏を始めた。

今回、俺は最初から全てのスピーカーを使うことはせず、最初は平面的な音像を構築して徐々に出力数を増やしていく流れにしていた。オーディエンスも普段とは違う方向からの音に慣れていないため、まずは通常のスピーカー構成から開始して、いくつかのリフレインを繰り返した後に自然に追加していくほうが良い結果になると思っていたのだった。そのため基本的な演奏はタロスに任せつつも、スピーカーの出力構成だけは、タロスの音を聴きながら、自身で細かくコントロールして立体的な音像を丁寧に、繊細に構築していった。

結果──その手法は上手くいった。楽曲の展開が進行するごとにフロアの音像は徐々に──しかし確実に拡がっていく。数十ヘルツの低音から二十キロヘルツの高音まで三百六十度あらゆる方向から発せられた音は、まるで重力が拡張したような、至る方向から迫りくる音波によって観客の感情が違和感なく高揚していくのが自分自身でもはっきりと知覚できた。

そして──マキの声。俺は彼女の声を取り込んだ後にクラブの実際の演奏まで一度もその音源を聞かなかった。そのため、具体的にどのような音と合成されて音源が構成されているのか解らない。しかし、あの日の音楽に含ませていたのは──力強さと儚さが同居した音、強い願望と希望が混濁して迫りくる不思議な力を俺は感じることができた。

何より──これで終わりじゃない。これから更に多くの音と結合し、新たな音楽を創り出していくような、そんな予感を俺は感じたのだった。

──誰かの風のような歌声が聴こえる。

遠くの方から美しい音の綺麗なメロディが聴こえる。それは目の前の空気を小さく振動させ、俺の耳に心地よいリズムで優しく入り込んでくる…。はっと目の前の光景が変わった気がして横を見ると、キャメル色のカットソーを着たマキが優しい顔で微笑んでいた。

俺たちは今日、伊勢まで来ていた。時刻は朝の五時過ぎ、神宮の宇治橋から見える静かな景色が朝の光の中で澄んだ景観を照らし出す。七メートル以上の高さでそびえ立つ両側の鳥居に挟まれたアーチ状の長い橋の中央付近から朝日に照らされた遠くの木々を見ていると、体中が暖かく満たされるような気分になる。

俺は全く信心深い人間ではないが、この場所の早朝がとても好きだった。何より好きなのは──この空気だ。極限まで削ぎ落としたような、現実感の薄れてくる景観と、心地よい無機質な空気。この感覚は今まで訪れたことのあるどの場所とも違う唯一の感覚を感じさせてくれる。橋を渡って鳥居をくぐり、丁寧に刈り揃えられた木々を横目に滑らかに敷き詰められた砂利の中を暫く歩いた後もこの感覚は消えず、否、寧ろより強固に肌の奥底まで、静閑な空気が入り込んでくることを知覚していた。

──ここには明確な音がない。──しかし五感へ訴えてくる響きがある。

俺は久しぶりにマキと会った。日本に戻ってマキへ連絡をする時、自然とこの場所への旅行を提案していた。その頃にはマキは既に退院していて、特に質問もせずに肯定してくれたのだった。

俺がこの場所にマキを誘った理由。──それは極々単純で《言葉がいらない》場所だからだ。俺がマキの病気を知ってから、ここ以上に会うのに最適な場所は思い浮かばなかった。俺は今回の旅行中できるだけ喋らないようにしていた。──俺だけが喋るのがフェアじゃない気がしていた。そこで、どうしても声に出さないといけない時にだけに留め、それ以外は可能な限りメッセージでのやり取りをしながら、ただ目の前の景色と空気を感じていた。

マキは声を失ったが、まだ希望は残されていた。アメリカで声帯移植の実績がある病院があり、その病院で移植が可能なのか検討を始めていたのだった。移植はまだ成功確率も高くなく、仮に成功しても今までと同じ声質の声が出せる保証はなかった。しかし、マキは少しでも希望があるのならそれに挑戦するのだと、強い意志のこもったメッセージで教えてくれた。

この場所に来てから一時間ほど経っただろうか、内宮を周り、宇治橋の反対側から戻ってくる際、マキはそっと俺の手を握ってきた。俺はその手をゆっくりと握り返し、同時に安らかな感情が自らを支配していることに気付いた。

ただ、声を提供してくれたことだけではない。一緒にクラブを見に行ったこと、食事をしながら話したこと、勇気をくれたこと、あらゆる過ぎた時間が愛おしく感じた。

俺たちは朝日の残る道をゆっくりと前に進み始めた──。

2052年、希望の色彩
第1章 インド
第2章 日本
第3章 日本
第4章 UAE / 日本

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