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2052年、希望の色彩 第2章 日本

2052年。世界の人口は百億人に迫り、日本の人口は一億人を割ることが時間の問題となったこの時代──テクノロジーが発達したこの世界で生まれた楽器《タロス》を操る俺は生命の音を探し続ける。

初めての方は第1章からお読みください。


2052年4月24日

日本に戻ってから十日後、俺はレコーディングのために恵比寿にあるスタジオに向かっていた。

今日録りたい音は──《人間の声》だ。

タロスを使った音楽では、通常複数の原音をミックスして1つの音源を構成するため、仮に歌声を録音してもそのまま出力されることは殆どない。だが人にとって人間の声の周波数は生物上重要な、脳裏に刻まれやすい音になるので、質の高い音声を多数収録しておくと良い結果になることが多いのだ。そのため俺は生の声──歌手の歌声を録るために、今回もサカグチに依頼して歌手の手配をしてもらっていた。

歌手との待ち合わせは十六時で、その約三十分前にスタジオへ到着した俺は、防音の効いたシンプルな内装の部屋の中で録音の準備をしながら初対面する歌手のことを考えていた。サカグチから事前に貰った情報によると二十歳の女性で主にポピュラー音楽の歌手として活動しているらしい。

デモ音源として彼女が歌っている曲を聞いたが、正直《掴みどころのない声》というイメージを持っていた。基本的に滑らかで透き通った声なのだが、どこか寂しげな暗さを同時に感じさせる。どこにでもある声のように聞こえるが、曲が終わると何か違和感──というか渇きのような感覚を抱き再度聞きたくなる不思議な声だった。

俺はタロスに喰わせる音を選ぶ時には直感で感じる《違和感》を一番重要視している。単に綺麗な耳障りの良いものではなく心の隙間に引っかかるような感覚があると、それが実際に音源となった際に聴衆を惹きつける音に変化すると思っているのだ。

先々週インドでサカグチと会った時に候補者リストをもらい、その中に掲載されていた数名の中から、今日これから会う小野瀬真希という女性へオファーを出した理由はその違和感が理由だった。

十六時ちょうどにスタジオへ来た彼女は長い黒髪を後ろに纏め、濃紺のデニムパンツに薄いストライプの柄が入ったオフショルダーのシャツと黒いサンダルを履いて現れた。俺より十五センチほど低い百六十センチくらいの身長に、やや細身で色白の体格でくっきりとした目元が印象的な整った顔立ちをしていた。簡単な挨拶の後、彼女が意味ありげな微笑を浮かべていることに気づいた俺が怪訝な顔をしていると彼女は若干遠慮がちに口を開いた。

「サカグチさんからは《無愛想なやつ》だって言われてたんです。なので、てっきり難しい年配の方かと思っていたんですが、同年代の方だったのでちょっと意外でした…」

サカグチに限って普段ならこういったミスは起きない。あいつ美人相手だから遊んだな、と思いながら──俺は一瞬困ったような顔を浮かべ──その後出来るだけ笑顔を作りながら話した。

「あの人、偶にそういったこと言ってふざけるんですよ。あの顔で真面目な口調で言うから全然面白くないんですけどね…」

彼女は笑いながら「そうなんですね」と言って口元を手で軽く覆い、ゆっくりと部屋の中へ入った。思わず彼女の何気ない所作に見とれながら、集中しないとなと思い、軽く息を吸った後に話し始めた。

「えっと、小野瀬さんはタロスへの録音経験はありますか?」

俺は初対面の歌手に毎回確認する質問をした。

「いえ、これが初めてです」

「そうですか。なら最初に軽く説明しますね」と言って、俺はいつもの話慣れた説明を始めた。

通常、歌手のレコーディングの時には普段歌い慣れた曲を最初に歌ってもらうことにしている。例えば喋り声などでも音として利用はできるのだが、音楽的な音の方が音源として効果的なことが多く、且つ発声し慣れた曲を歌ってもらうことがその人の一番良い音が録りやすいのだ。そこでまずはその方法で始めながら、様子を見て他の方法も試しながら進めていくのが俺が普段から行っているやり方だ。

マキは俺の説明を聞いた後、簡単な質問をした後に大方理解したようで声出しを始めた。プロの歌手であっても《機械に加工されるための声を出す》という行為が影響するのか、人によってはかなり緊張することもあるのだが、見た所そのような雰囲気は無かったので、早速俺も残りのマイクの調整をして録音の準備を進めた。

「あの、一つだけ…」と言ってマキは俺の方を向いた。

「もし良ければ、何か今までに作った楽曲を聞かせてもらえませんか?その方が歌う時にイメージしやすいので」

俺は歌ってもらう前に率先して自分の楽曲を聞かせないようにしている。変なイメージを持たずに歌ってほしいからなのだが、求められた場合には流すようにしているので、解りましたと言ってテスト楽曲の再生準備を始めた。タロスはクラブなどその場の環境に合わせてリアルタイムに楽曲生成するシステムだが、テスト用に利用するためのモードが複数搭載されており、こういった時にもその機能を利用することにしている。準備が整ったのでマキに一言断ってから俺は再生ボタンを押した。

数分間楽曲を再生してから、会話ができるよう音量が小さくなるまでボリュームを絞り、確認のための声をかけるためにマキの方を見ると、彼女はまるで別の世界にいるような──もしくは何かを考えているような表情で前方を直視していた。暫くすると現実に戻ったかのような仕草でぴくっと肩を動かし、その後俺の方を向いて若干恥ずかしように口を開いた。

「すみません、ちょっと別のことを思い出していて。先日聞いた音楽に何か雰囲気が似ていたものだったから」

《似ている音楽》に興味をそそられつつも、話が脱線し録音前に余計な印象を強く作られると悪影響があるかなと思い、俺は「準備が出来たか」だけを尋ね、彼女が問題ないと言うので本番の録音のためにマイクの調整を始めた。

いざ録音を始めてみると──俺はサカグチから貰っていたデモ音源の時のイメージが全く間違っていたことに気づいた。《掴みどころのない》と思っていた声は──まるで実際にこの場で聞かれるまで隠していたかのように別の印象を俺に抱かせる。滑らかで透明感のある声の倍音は伸びやかに頭上を駆け抜け、寂しげな暗さと感じていた部分は柔らかな深みとなって腹部に拡がる。非常に音像の広いダイナミックな音声が目の前に展開され、思わず軽く口を開けたまま彼女の歌う姿に魅入っていた。

興奮を抑えながらマイクの種類や位置を調整し数テイク、更にいくつか追加で楽曲を歌ってもらい充分な量の音が撮れたので、レコーディングを終了することにした。

ある程度片付けも終わったので、先程から気になっていたことを聞いてみようと思い彼女に声をかけた。

「あの、レコーディング前に、以前聞いた音楽に似ているって言っていた件なんだけど…」

彼女は少し考え、意味が解ったようで口を開いた。

「ああ、二週間くらい前に友達とインドに旅行したんです。そこで現地のクラブに行ったんですけど、さっきの音楽と似ていて…。なんとなくだけど」

「──そのクラブの名前って…」

音楽を仕事にしていれば、インド国内でも有名なクラブである「クラブ42」に立ち寄ることは理解できる。しかし、まさか声の提供をしてもらったその人が数週間前に偶然自分が担当した日に居たとは予想もせず、彼女の口からそのクラブの名前と日付が出た時に思わず声が上ずってしまいそうだったので不自然に黙っていると彼女は遠慮がちに続けた。

「あの時──インドに旅行に行った時ですけど、実はあまり元気がなくて…でも友達が誘ってくれたので、頑張って出掛けることにしたんです。その時に聞いた音楽がすごく衝撃的で…。ううん、なんていうのが正しいのかわからない。でも…なんというか…生命みたいなものを感じたんです」

俺は黙って端末を操作し、あの日録音されたトラックを探した。それは直ぐに見つかり再生をすると彼女がハッと息を呑んだのが解った。その後、その時の音楽は自分が作っていてその場にいたこと、ちょうどその場所でマキにオファーを出すことを決めたことなどを話すと、彼女もまさかの偶然に驚いていた。こんな偶然あるんですね、と二人で笑い合いながらその日の思い出を語り合ったのだった。

十八時頃、俺もマキも次の予定があったので片付け終わった機材を詰めたバッグを持ちながら別れることになった。俺はちょっと躊躇いながらも別れ際に、良ければまた今度連絡してもいいですか?と声をかけた。

「今日録らせてもらった小野瀬さんの声がすごく良くて。だからまた録らせてもらえると嬉しいんだけど…」

彼女は──少し躊躇したような表情を浮かべた気がしたが──その後すぐに笑顔を浮かべて是非お願いしますと言ってくれた。俺は安心して思わず軽く息を吐き、その後互いに別れの言葉をかけて別れた後、近くを走っていた車を呼んで一人座席に乗り込んだのだった。

十九時前に新宿駅から五分ほどの距離にあるバーの前に着いた俺は、薄暗い路地の中に入っていき、その先にある年季の入った扉を開けた。入ってすぐ間近に見える多少急な階段を手摺に手をかけながら上り、喧騒の中で知っている顔を探す。そこでカウンター奥のテーブルに、白いTシャツにグレーのジャケットを羽織って椅子に座っている見慣れた人影を見つけると俺は声をかけた。

「──ふうん…お前が珍しいな…そんなに人に興味持つなんてさ」

バーの客入りは五割程だろうか。白黒の肖像画や東南アジアの神々のような姿を描いた絵画が飾ってある薄暗い店内を横切り、百年近く前に発表されたミュートの効いたトランペットが奏でる寂しげな音楽が流れる店内の奥にあるカウンターの席に十分ほど前に座った俺は、ベルギー産のビールを飲みながら、数時間前のレコーディングの時の話を聞かせた友人の言葉を聞いていたのだった。

「いやだってさ…お前基本的に仕事中は本当に人のことモノみたいに見てる気がするからさ。モノというか発音機?相手が大物だったりすると、珠に横で見てて恐ろしくなるぜ」

目の前の友人──ヒデトは俺と同じタロスを使う音楽家だ。年齢は二つほどヒデトの方が上だが、三年くらい前に同じクラブで演奏していた時に彼から声をかけてきたのだった。彼の創る音楽は俺のスタイルとはかなり違っていたが、とはいえ彼の性格を表現したかのような明るくて素直な音は、俺には出せないユニークな個性のある音楽を奏でていて好感を持ったのだ。その後も時間が合う時には一緒に会うようになり、この場所もヒデトが教えてくれたのだった。

「モノとは思ってないよ。ただ、あまり下手に感情を交えすぎると正確な判断ができなくなるからさ」

「しかし今回は違ったと…」

ヒデトの言葉に俺はちょっと考え…言葉を慎重に選ぶようにして答えた。

「もしかするとクラブ42の話が影響したのかもしれないな…。あの日の演奏はいつもより出来が良かったからさ。──でも、それだけではない気がする。彼女の声が俺の音楽を良い方向に変えてくれる予感があるんだ。タロスに《喰わせた》のが今日だから若干馴染むまで様子を見てみるけど、間違いなくリード系の音は良くなると思うよ。」

「そうか、でも単純に音楽だけではなかったと俺は思うけどね」

悪戯気味に話すヒデトに対して、面倒だなとヒデトを軽く睨みながらも改めて自問していた。俺は仕事で会う人に対して特別な感情を混ぜるのが好きではない。純粋に目的が違うと思うし、色々な煩わしさが音楽にまで影響するのが嫌いなのだ。それに今となっては付き合いの長い相棒のようなタロスには、そんな感情さえも解析されてしまう気がして気が引けてしまう。ただ、同時にそれだけでは割り切れない感覚もあったため曖昧に濁した返答をした。

「どうかな…。そんなことはないと思うんだけど…」

「はは。まぁ俺は期待してるよ」

なんの期待だよと思いながらも、これ以上話すとアルコールで顔を若干赤らめたヒデトの悪酔いが進みそうなので話を切り替えることにした。

「そういや、次はいつなんだっけ?来週?」

確か、来週六本木で演奏するって以前に言ってたな、と記憶をたどりながら尋ねる。

「ああ、来月の四日。時間あれば見に来いよ。あっあと六月の第二週は絶対来いよ。JGのやつも久々に日本でやるんだぜ」

本当か。それは楽しみだな、と驚きながら答えると、ヒデトは軽く頷いた後にハイボールを喉へ流し込んだ。

人間の感情や感覚というのは解らないものだと俺は考えることがある。これだけテクノロジーが発達して、単純な情報の羅列であるはずのプログラムがまるで人の感情を理解してレスポンスを返しているかのように振る舞う事が可能となった現在でも、未だ人の感情の深部は解らないことの方が多いのだ。俺は自分の感情でさえ正確に理解しておらず、自分が間違った判断──または理解できないまま行動してしまった時はどうしようもない嫌悪感に襲われることがある。

そんな時、俺は目を瞑り自分が小さな塊になるイメージをする。直径一ミリ程度しかない俺は風に押し流されて地表から舞い上がり、夜空の中を高く飛び上がる。その後に雲を突き抜けて下を見つめると、雲の隙間から無数の宝石のような明かりが拡がる都会の街並みが目の前に拡がるのだ。数え切れない数の生命。そのひとつ一つがぶつかり、交わり絡み合いながら前に進んだり後退したりしながら人工的に作られた光り輝く世界をそれぞれの方向に蠢いている。

ヒデトと会った帰り、深夜の街を歩いて自宅に帰りながらそんなことを考えていた。


2052年6月8日

「カズの家族ってどんな人なの?」

マキから不意に家族の話題を振られ、思わず何を聞かれているのか一瞬理解できずにいる俺を見て、目の前で両手の上に顎を乗せていたマキが軽く吹き出した。

小雨が降る夜、俺はノースリーブのボーダー柄ワンピースを着たマキと一緒にカジュアルなイタリアンを提供するレストランで時間を潰していた。急な坂道の途中にある小さな十五席くらいのレストランだが飾らない雰囲気と丁寧に作られた料理が好きで、俺は近くに用事が会った時は頻繁にここで食事をしていた。

マキと会うのも今回が四回目だ。四月に初回のレコーディングを行った後、二回ほど追加で彼女の歌声を録音した。場所は初回と同じ恵比寿のスタジオで、曲調やスピードの違ういくつかの楽曲を歌ってもらった。その他特徴的なメロディを複数用意してハミングで歌ってもらったり、ファルセットの歌声をいくつか録音もした。

マキの歌声は思った通りタロスが奏でる俺の音楽に良い変化をもたらした。今まで──マキの声が入るまでは、ビートを抑えた静かな展開のパートで音が軽くなりすぎて力不足を感じることがあったのだが、以前より深く拡がりのある音で──且つその後の動的なパートを邪魔することもなく心地よく主張をしてくれるメロディが加わり既存の音源と共鳴することで、以前には奏でることのなかった展開を紡ぐことができるようになったのだ。それは録音を重ねて音源を構築する度に強化されて音楽全体の質を高めた。

三回目の録音が終わった後にマキがクラブに行きたいと言ったので、以前ヒデトと約束していた演奏を観に行こうと誘った。そして今日、夕食を食べながらクラブのオープンを待っていたのだ。最初会った頃は若干遠慮がちだったマキとの距離も会う度に徐々に近づいてきて、元々そういう性格なのだろう、寧ろ積極的に色々と質問してくるようになっていた。

「あれ、別にそんな深刻な質問じゃないでしょ?もしかして犯罪者だったとか?」

暖色の照明で調整されたレストランの木製の椅子に座ったマキが生ハムを刺したフォークを宙でゆらゆらと動かしながら無邪気に聞いてくる。

「いや、さすがにそれはないけどさ。でも、ちょっと特殊かもしれないな。親父は日本人じゃないし、そもそも記憶にあんまりないしね」

「あ、顔の彫りが深いし、もしかしてって思っていたけどそうなんだ」

「ああ、父親はインド人…らしいよ。俺が五歳の時に離婚したからあまり覚えてないんだ。母親も写真家で結構色々な所を飛び回っていたから割と家で一人でいることが多かったな」

「そっか…寂しかった?」

「どうだろうな…寂しくないと言ったら嘘になると思う。だけど、母さんは家にいる時は優しかったし、母が撮る写真は好きだったよ」

「へぇ、どんな写真だったの?」

 俺は少し考えた後で答える。

「何ていうか…すごく抽象的な写真。普通の建物や人の写真も撮っていたけど俺が一番好きだったのはすごく不思議な印象の写真だったよ。紙…というか何か柔らかな質感の背景に糸のような細い線でランダムにインクを垂らして表現したような絵画みたいな写真。当時全く意味が解らなかったし今でも知らないんだけど、何か惹かれる魅力があったんだよね」

「ふうん、なんかカズの音楽みたいだね」とマキは満足そうな顔で南アフリカ産の赤ワインを口に運びながらうなずいた。

「マキは?親や姉妹は何しているの?」

「うちの親は横浜でお店をやってるよ。洋食を出す小料理屋で父さんが作るコロッケはすごく美味しいんだよ。姉妹はいないけど我儘な妹みたいな猫が一匹。実家に帰るといつも面倒くさそうな顔で出迎えてくれるんだ」

「そっか、なんで歌手になろうと思ったの?」

「うーん、昔から歌を歌うのは好きだったんだよね。あと母さんが結婚する前は音大に行ってピアノ弾いてたんだ。その影響かは解らないけど私も音楽に興味あったって感じかな」

 マキの返答を聞きながら、もし俺の両親が離婚せずに一緒に暮らしていたらどうなっていただろうと考えていた。俺が小さい頃に離婚して離れていった父親を恨んではいないつもりだし、あの自由人の母親であれば父親もさぞかし大変だったろうと感じずにはいられない。だが、先程マキに話した通り小さい頃の俺にとって…少なからず寂しさや負の影響はあったのだろう。心理学者にでも相談すれば「寂しさを紛らわすためにタロスに惹かれたのだ」とでも言われるかもしれない。

しかし、そんなことは考えても仕方がないのだ。過去を巻き戻せる訳ではないし、どんな家族やコミュニティであってもそれなりに幸せと課題を抱えているものだ。マキの家族だって一見幸せそうに聞こえるが当然俺には言えない事があるのだと思う。人は与えられた状況に対して最大限自分にとっての幸せや価値を手に入れるためにこの世界で動き続けるしかないのだ。

マキはその後も俺の事を知りたがり、俺はそんな時間をゆっくり楽しみながら半分ほど残っている赤ワインのボトルをグラスに傾けていた。

─────

食事も終わり時間も経ってきたので、俺達はクラブへ移動することにした。レストランからクラブまでは歩いていける距離だったが、雨が強く降っていたので車を呼んで移動することにする。ほんの数分で目的の場所へ到着し支払いを済ませた俺はクラブの外観を見上げた。

雨で濡れたコンクリートの先に数段の磨き抜かれた階段が設置され、アーチ状の白銀の大きな入口とその両サイドに装飾的な照明が施された様子が見える《クラブBREW》はトウジョウという有名な日本人がオーナーをしているクラブだ。世界中でクラブを運営している彼の日本拠点であるこの場所は六本木に存在する数あるクラブの中でも一際豪華で、数々の有名な海外の音楽家を招集することでも有名だった。

今日俺がここに来た理由は、一ヶ月半ほど前にヒデトに誘われたからで、当然彼の演奏を観るためでもあるのだが──JGが演奏するというのが何よりの目的だった。

JGと呼ばれるアフリカ系アメリカ人である彼は、今世界で最も有名なタロスの演奏家と言って良いだろう。父親がサックス奏者、母親がダンサーとして共に著名なパフォーマーである両親の元に産まれた彼は、ボストンにある音楽大学を卒業した後直ぐにその才能を活かしてプロのドラマーとして活動を開始した。同時にタロスの演奏もスタートした彼はアメリカ東部から拡がりすぐに世界中で人気の演奏家となったのだ。

彼の音楽の特徴はなんと言ってもそのビートだ。ドラムの演奏家でもあり百九十センチの筋肉質な体格がそのまま憑依したかのような彼のタロスが発するビートはスピーカーの出力レベルが一段階違うのではないかと思うほどパワフルだ。キレのあるアタックとその後の滑らかな減衰音はまるで肉食動物が獲物を捉えるために躍動しているかのような印象を抱く。彼の音楽を聞いた後に他の音楽を聞くと、酷く平坦な抑揚のない音に聞こえてしまうから不思議だ。

著名なオンラインメディアや音楽フェスティバル、その他大規模なスポーツの開会式などで彼の姿を観る機会は多かった。俺も動画で彼の演奏は何度が観たことがあり、二年前に彼が来日した際に一度彼の演奏を生で観て衝撃を受け、その時は尊敬と少しの嫉妬が入り混じった感覚をずっと抱いている。

クラブBREWの中に入った俺はまずフロア後部に設置されているテーブル席の一つへ移動し、マキへ飲み物の好みを聞いてからバーカウンターへ移動した。ビールとウォッカトニックを持ってテーブル席に戻ったところでメッセージの通知を感じたので、端末で確認するとヒデトからのメッセージだった。どうやらヒデトが招待していた投資家が急遽来れなくなったためVIP席に空きがあるので使わないか、とのことだった。マキも行ってみたいと希望したので有り難く使わせてもらうことにして、VIP専用の入口の方に二人で向かった。

クラブBREWはいくつかのランクのVIP向けの席が用意されており、一番上のSSランクはまるで最上級ホテルのスイートルームのような作りとなっている。そこは当然裕福な金持ちが自身のプライドと優越感のために使うもの──と俺は思っている──で、クラブの収益上で鑑みても非常に重要な席だ。それとは別に一番下のAランクについてはその日の演奏家のために用意される席がいくつかあり、音楽関係者や投資家など演奏家自身にとって重要なビジネスパートナーのために利用するのが普通だ。この席は音が鮮明に聞きやすい場所に設置されていて、演奏後には商談にも利用できるためとても重宝されている。音楽家が成功するのための環境を用意して、その音楽家との良好な関係を構築することが自分のビジネスの成功にも密接に関わるということを理解している事が解るこの仕組みは、トウジョウが単に豪華なクラブを作って満足するだけではない人間だということが解る。

トウジョウとは実際に何度か会ったことがあるが、オールバックの髪型に顎髭を生やした端正な五十代の顔に黒いスーツを瀟洒に着こなしている彼の立ち振舞はまるで昔の映画の一シーンから抜け出してきたようにとても様になっていて、彼と話していると少しこちらが気後れしてしまう。しかしそれだけでなく同時に心地よい雰囲気を感じるような独自の魅力を持っている人だった。

最初の演奏者の時間が終わり、俺はマキに断ってからトイレにいくために暗い通路をゆっくりと歩いていった。すると、前から歩いてきた男と肩がぶつかりそうになった。何となく嫌な予感がしたので気づかないふりをしてそのまま行ってしまおうかと思ったが、万が一相手がヒデトの知り合いで俺が変な態度を取ると余計なトラブルの元になると思ったので軽く息を整えた後、左側の男が立っている方へ顔を向けた。

そこにいたのは身長百六十センチほどで小太りな三十歳前後、ノータイでグレーのスーツを着た男だった。俺も何度か会ったことのあるリーという中国人で、俺の方を見て少し躊躇したような間の後で微笑んできた。俺はリーという男があまり好きではない──というか嫌いな部類の人間だ。彼の父親が上海で巨大な投資会社を営んでおり、彼自身もその会社の役員として多数の投資や協業を行っている。噂ではいくつかのクラブにも資金を入れているという話を聞いたことがあるが本当かどうかは解らない。俺は彼が音楽に興味があるとは思えないし、それ自体は特別問題がないのだが、以前に彼が関わったプロジェクトで嫌な思いをしたことがあり、それ以来できるだけ距離を置くようにしていた。

彼の英語は癖が強く聞き取りにくいため、俺は耳に装着していたイヤホンの通訳機能をオンにしてから軽く会釈をして彼の発言を待った。

「カズくんか、久しぶりだね。今日は見に来たのかい?」

「ええ、友人に誘われたもので」俺はできるだけ抑揚をつけず静かに返答した。

「そうか。今日はJGのマネージャーと話があってね。今度上海で開催するメインイベントで彼に演奏してもらいたくて交渉をしに来たんだよ。そうだ、君も十月は空いているかな?確か初日のショーの最初の方にまだ空きがあったはずだ…」

JGは知名度抜群の演奏者で、彼をメインイベントに呼ぶことは当然だと思われたが、全く気にする素振りも見せずに、ある意味前座とも取れる出番の依頼を平気な顔でしてくる彼の神経にただ呆れた。とはいえここで下手に突っかかる気持ちもなく「ありがとうございます、考えておきます」と、できるだけ静かに抑えて返答した後、失礼しますと言って彼と別れた。

席に戻ると、マキが「遅かったね」と声をかけてきて、その後俺の態度に何か不自然な仕草を感じたのか「どうかした?」と質問してきた。

「いや、ちょっと知り合いに会っただけだよ。そろそろヒデトの順番かな?」

別に隠すつもりもないのだが、リーのことを特別マキに話す気にはなれず、話題を変えるためにもフロアの方へ目をやった。

すると、ちょうどヒデトの演奏が始まるところだった。数秒間フロアが暗転した後、ゆっくりと明るいテンションを含んだメジャー系の和音が聞こえてくる。ローズピアノとナイロンギター、さらにパッドシンセの音がうっすら混じったような音で奏でるリフレインはとても心地よく、ちょうど嫌な気分に変わっていた俺の心を落ち着かせるよう優しく撫でるような音を響かせていた。青白いスポットライトがまるで日光のように差し込み、直ぐに軽快なキックの音が地面を踏みしめて気分を高揚させる低音を刻み始める。

「ヒデトの音だな…」キックが鳴り始めたその瞬間、俺は思わずそう感じた。

いつも思うのだが、ヒデトの音には嘘がない。軽快なサウンドは得てして《軽い》だけの音になり易く、薄っぺらいドラマのような音楽になりがちなのだが、彼の音色にはそれを感じ無いのだ。彼の音楽は常に優しく、春風の中眩しい光を浴びて輝いている木々や植物を横目に通り過ぎて、澄んだ綺麗な空気の中を歩いているような気分にさせる。暫くリフを繰り返した後、シェイカーのサウンドを風のように靡かせ、多重に重なったストリングの音色がそれを追いかけて流れてくると、眼の前に自然で綺麗な音の景色が拡がっていくのだった。

ヒデトの父親は登山家で、彼は小さい頃によく山登りをしていたらしい。車で山の麓まで移動して、そこから父親と一緒に、颯爽と茂る緑葉を見ながら一段ずつ木製の階段を登っていき山頂を目指す行程は、タロスで行う音作りに近いのだとヒデトは言っていた。そういう彼から紡ぎ出される音色は正にそのままで、楽曲が進んでいくと、雄大にそびえ立つ山々とその中で誇らしげに共生していく植物の連なりを俺に感じさせた。ふと目線を下にやりフロアを眺めると、観客も気持ち良さそうに踊りながらそれぞれの記憶にある優しい想いを感じているような、そんな風に見えた。

「すごく良かったね…」と演奏が終わった後にマキは俺の方を向いて笑顔で呟いた。

その顔があまりにも純粋な──曇りのない表情だったので、若干顔が火照った気がして目線を僅かに下に落としながら同意した。俺は友人の創り出した音がマキの心を動かしたことを──少し胃が締め付けられる感覚と共に──満足して聞いていたのだった。

ヒデトの演奏が終わった後、俺は少し落ち着かない感覚を覚えながら、先程オーダーしたブラッディマリーを胃に流し込んでいた。休憩を挟んだ後JGの演奏が始まるからだ。

暫くするとVIP席の端から人の気配を感じ、そちらに目線を動かすとチャコールグレーの無地のビックシルエットTシャツを着たヒデトがそこに立っていた。マキとヒデトを互いに簡単に紹介すると──ヒデトが余計なことを口走らないうちに俺は先程の演奏についてヒデトに聞いてみた。

「うーん、そうだな…まあまあかな」

俺は彼からの少し意外な返答が気になり、彼の表情を伺いながら言葉をかけた。

「そうか?結構フロアも盛り上がってたと思うけど…」

「ん、そうだな。でもやっぱり後にJGが控えてると思うとさ。やっぱもうちょっと出来たんじゃないかと思うわけよ。張り合うわけじゃないんだけどな」

その気持ちは理解できる。もし俺も同様の順番で演奏することになったら、やはり相当のプレッシャーを感じながら演奏をすることになっていただろうと思った。

「でもいい機会だったんじゃないか?こんな相手が控えた中で演奏することってあんまり無いからさ。普段はいない観客にもアピールできただろうし」

「そうだな…。そういやさっきリーの奴に会ったよ。あの野郎、JGとの契約が決まりそうだって燥いでたぜ。全くいつものことだけどさ…」

思わずその時の情景が頭上に思い浮かび苦笑いを浮かべていると、ライトがすっと暗くなり、ほぼ同時にフロアから大きな歓声が上がった。

「お、ついに登場だな」

ヒデトがそういって席の手前にある手摺の方までさっと出ていったので俺とマキも一緒に席を立って前方へ移動した。

その最初の音は何の前触れもなく急に発生した。

ブザー音のような、人の注意を喚起するために存在するかのような音が様々な定位から一斉に鳴り出し、不快感が募ってきた所で徐々に──否、正確には最初から計算されていたのであろう、それらのブザー音が一つのリズムを刻んでいると知覚できたちょうどそのタイミングで音が急に止んで無音の静寂がフロアを包み込んだ。

実際には一秒程度なのだろうが、その静寂はまるで数十秒続いているかのようだった。いざ次の音が鳴り出した時には会場のボルテージが一気に最高潮に達したのが解る。その音──JGにしか出せない動物的なビートは──よく聴くと先程のブザー音のリズムと同じタイミングで音を刻み──同時に先程とは違った有機的なサウンドを響かせ──会場の一人ひとりの五感に鋭く突き刺さっていくのだった。

その後、ビートに複雑なシンセサイズされたパーカッションの音色が混ざり合い、更に追い打ちをかけるように、ホーンサウンドが中央から、無機質なシンセサウンドが両サイドから発生し途轍もない高さの音の壁を構築していく…まるで都会の無機質な街に野生のジャングルから飛び出してきた猛獣が荒れ狂っているような迫力で、圧倒的な存在感を最初の数分間で刻みつけたのだ。

俺は今日のヒデトの演奏は素晴らしかったと感じたし、間違いなく観客の心をその時確実に掴んでいただろうと思う。しかし、それでもJGの音はスケールが違う──そもそもの規格が全く違うと思わせるものだった…。

「いやあ、参ったな…」JGの演奏が終わった後、ヒデトは大きく伸びをしながら苦笑いを浮かべて呟いた。

俺は演奏の後でヒデトとJGの使った音や曲の展開の仕方について語り合っていたのだが、正直そんな小手先の話ではなく──もっと本質的で根本的な違いが存在することを二人共痛感していた。しかし、その違いが何処からくるのか、それを言語化することはできずに、ただその空間にもどかしさが募るばかりなのを互いに理解しながら語り合っていたのだった。

俺とマキはヒデトと別れクラブの外に出た。直ぐに車に乗る気分でもなかったので、何となく当てもないまま夜の都会の喧騒の中をゆっくりと歩いていた。雨は既に止んでいたが、所々に在る水溜まりを避けて一歩ずつ足を前に進めるとマキが俺の知らないメロディを小さな声量で口ずさみ始めた。マキが仕事で歌った曲なのかな──そう思い、強い湿気でシャツが体に張り付いてくる感覚に嫌気を覚えながら歩いていると、ふいにマキは話し始めた。

「私さ、なんか今日色々なこと考えちゃった…。ヒデトさんの演奏もJGさんの演奏も凄かったし、とても興奮したんだけど──同時に怖いっていうか…私は…自分の歌であそこまで人の心を動かしてるのかなって」

マキは丁寧に考えながら、言葉を一個ずつ見つけるように話を続けた。

「カズの音楽も──最初に聞いたときから私が今まで見たことがないような世界を見せてくれたし。嬉しい反面、寂しい気分。まるで私だけどこかに置いてけぼりになったみたいに感じちゃったよ」

そう言ってマキは俺の左肩の付近に頭を寄せ、俺の左手を彼女の小さい右手でゆっくり摘むように触ってきた。俺はその彼女の温かい手をぐっと握って──この後かけるべき言葉を探していた。だが、頭の中でいくつも浮かんだ単語はどれも正確に俺の気持ちを表すことは出来ず──俺は足を止めて彼女の方を向き、彼女の背中に手を回して引き寄せた。

もし彼女の声を今よりもっとタロスの中で共鳴させられて、在るべき姿を見つけ出すことができたなら──多分その時に俺はより深く彼女に伝えるべき言葉を獲得できるのだろう。──俺はそう思いながら、彼女の背中に回した手に力を入れ少し強く抱き寄せたのだった。

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2052年、希望の色彩
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第2章 日本
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