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2052年、希望の色彩 第3章 日本

2052年。世界の人口は百億人に迫り、日本の人口は一億人を割ることが時間の問題となったこの時代──テクノロジーが発達したこの世界で生まれた楽器《タロス》を操る俺は生命の音を探し続ける。

初めての方は第1章からお読みください。


2052年6月25日

この時期にしては珍しく晴れた青空が広がる正午の空の下、俺は久しぶりにハンドル付きの車を使って横浜方面へ向かっていた。

自動運転が当たり前の現在とあっては数ある娯楽の一つでしかない車の運転だが、時間がある時は手動運転者を借りて運転をすることにしている。自分の手と足を使って機械を動かす作業はタロスを操作する時とはまた違った感覚があり、俺は気分転換をしたい時に好んで運転した。そこまで走っている車も多くなく、空いている高速道路を通って一時間ほど進み、インターチェンジから一般道へ降りて暫く走るとナビに表示された目的地が見えてくる。車をロータリーへ静かに止めて、いつものように決済端末へ手をかざした俺は車から降りて目の前にそびえ立つ淡い色のコンクリートの建物の中へ入っていった。

そんなに深刻なことじゃないんだ。慣れっこだからね、と彼女は病院のベットで軽く微笑みながら話し始めた。

六月の上旬にマキと会った後、いくつかの仕事で忙しい日々が続き、ここ最近あまり連絡をしていなかった俺は「入院した」というマキからの急なメッセージを受け取り、とても驚いた。会いにいきたい、という連絡をして病院の住所を聞き、仕事の合間を縫って横浜にある病院に駆けつけた。そこで思っていたより元気そうなマキの笑顔を見て安心感を感じながらも、何か罪悪感のような──なぜか解らないが、まるで原因が自分にあるかのような居心地の悪さを感じてマキの顔を見つめていた。

マキは小さい頃から体の免疫が弱く、病気になって薬を飲んだり──酷いときには入院することも幾度かあったらしい。マキの言う《慣れっこ》というのは入院するのが慣れているという意味で、今回も一週間程度で退院できると思う、と医師から言われているとのことだった。彼女か病気がちな事自体が初耳で、気のせいかもしれないが若干やつれたように見えるクリーム色のパジャマ姿のマキの顔を見ていると心配になり、何かできることはないか、と自信なさげに聞いて見ると「大丈夫だよ、大したことないから。でも会いに来てくれて嬉しい」とマキに言われた。これではどちらが励まされているのか解らないな、と思いながら最近の仕事の話やヒデトのことなどを一時間ほど話した後マキに別れを告げ、病室から出て階下に向かう病室近くのエレベーターに乗った。

エレベーターで一階まで降りて少し歩くと、病院のロビーが見えて来る。俺は昔から病院の空気が苦手だった。病院の無機質な建物や薬品の混ざったようなニオイ、患者や見舞客の人々から感じる暗い生気や待合エリアに設置されているくすんだ色の椅子を見ていると、無表情に澄み切った──同時に冷え冷えとした重苦しい空気感を感じて気分が沈んでしまう。もし俺が入院したらマキのように自然にいられるのかな、と考えながら病院の出入口に設置された自動ドアから外に出ると、この時期には珍しく快晴の空が眩しく、眼を細めながらゆっくりと深呼吸をした。

病院の外へ出ると直ぐにサカグチからのメッセージが届いた。仕事の依頼で急遽今週の金曜に新宿で演奏できるか、という話だった。こういった時に仕事の話が来ると安心する。自分にできることがあって人に求められているという安心感を感じるのだ。俺は、多分可能だから詳細を教えて欲しいとメッセージを送り、蒸し暑さを感じるようになった日差しの中、病院前の木々を横切り歩き出した。


2052年6月28日


その週の金曜日、俺はサカグチから依頼のあった新宿のクラブで演奏をしていた。その日の客入りは良く、俺の出番の前から非常に盛り上がっていたのだが、俺は演奏中に全く集中できていない自分を酷く客観的に感じていた。

まるでモニタールームに座る自分の隣で無機質な俺が自分のことを後ろから観察しているような感覚──何度か端末を操作している様子が見えるが、俺は触っている感覚がない。暫くするとフロアが徐々に足元から水の中に埋まってくる。温度や水に濡れた触覚はないが、俺の顔まで水が到達すると音がローパスフィルターをかけたように遠ざっていく。

地面から体が少しだけ浮き、上部の水上から流れる音を聞いているかような浮遊感のある感覚の中、ふと何気なく客席を見ると、激しく体を動かして踊っている二十人くらいの男女の集団が見えた。その集団から左後方に五メートルほど目線を動かす。すると、やや壁に近い薄暗いエリアで一人のストライプ柄のシャツを着た女性が立っていた。確かマキと最初に会った時、あんなシャツを着てたなと思っていると、急にその女性の身長が縮んだように見えた。するとその女性の友人だろうか、直ぐ隣にいたVネックのネイビーのブラウスを着た女性が驚いた表情で女性の方を向き、隣の女性の肩を揺すって深刻そうに声をかけた。縮んだように見えたのはどうやらその女性が倒れたためで、友人に抱えられ直ぐ側の壁の近くまで運ばれていったのだ。

普段であればアルコールを飲みすぎたのかな、と思うくらいで何も気にしないのだが、その時は急に心臓が締め付けられるような感情に襲われた。シャツを着た女性の顔は見えなかったが、茶色のショートカットでマキとは全く違う髪型をしていた。それなのに、その時俺はマキがそこで倒れたような感覚に襲われたのだ。

マキは一週間くらい入院すると言っていたし、表情は見えなかったが髪型も全く違うのでそれがマキのはずがない。だが俺はやけに不安になり、こめかみの辺りがずきずきと痛みだした。

しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。五秒間ほど目を瞑り、痛みが落ち着くのを待って俺はゆっくりと目を開けた。倒れた女性がいたはずの客席の方へ目をやると、先程見た場所に女性の姿は見えなかった。水の中にいたように感じていた感覚もなくなり、音もいつも通りに聞こえる──。俺は軽く息を吐きながら、後ろの壁にどすっと寄りかかった。

演奏の後、俺はヒデトと珠に行くバーのカウンターで一人オールドクロウのバーボンを飲んでいた。普段俺は一人で飲みに行く事はなく、一人で飲みたいときは自宅で飲むようにしている。その日は急遽決まった演奏で──特別自分の関係者も呼んでいなかったので自身の演奏の後に直ぐ帰ることも出来たのだが、どうしてなのか、家に帰る気持ちになれずに何となく小雨が降る喧騒の中をふらふらと新宿にあるバーの中に入っていったのだった。

このバーでは日に何度か生演奏の時間があり、ちょうどその時は四、五十代くらいの小太りな女性がピアノを演奏していた。若干くすんだ音で奏でるブルース進行のコードをベースにした音楽を聞きながら椅子に座った俺は、バーボンによって若干金色がかった氷を見つめて十二歳くらいの時に学校の課題で書いた将来の夢を思い出していた。その課題で、クラスメートは皆自分のなりたい職業を書いていて──例えばスポーツ選手のような人気のある職業を書いていたのだが、俺はなぜかそこに《オトナ》と書いたのだ。当時はなぜ大人と書いたのか自分でも正確に解らなかったし、周りの友人も不思議そうな顔をしていて俺自身説明もできなかった。

だが、今思うと──俺は単に自立したかったのだと思う。

俺は小さいながらも自分が無知で何の力も持っていないことを漠然と感じていた。父親がいないことも、母親が父親と別れた理由も、世の中がどう回っているのかも、何もかもを知らなかった。俺はその状況に無自覚なまま不満を持ち、早く自分の力で生きていきたかったのだ。俺の手元には九歳の時に出会ったタロスがあり、その機械と接している時は、自分がこの世界と《噛み合っている》ことを感じていた。なので、その後もその機械との付き合いを継続して機械を操作する技術の精度を上げていった。それを継続していくと、いつの間にかそれが仕事となり、自分自身が当時感じていた大人に徐々に近づいていった気がする。

俺はただ純粋に力が欲しかったのだ、と思う。誰かから求められて、自身がそれを提供する能力があって、そこに他者との関係性が構築される感覚。当時十二歳だった俺にはそれができなかったし、且つそれを欲していた。多分その当時、写真家である自分の母親の写真を見て、自分との圧倒的な差異を感じていたのだ。

俺が好きだった写真──抽象的な曲線をランダムに描いたような絵画みたいな写真は、俺にとって力の象徴だったのだと思う。何の写真か解らなかったが俺は酷くその写真を求めていた。そして、母親はそれを創り出して提供することができたのだ。

マキについて考える。マキの歌声は魅力的で、俺は一聴して惹き込まれ、彼女と何回も会って彼女の声を録音した。──それだけだろうか。俺は一度も歌手としてポピュラー音楽を歌うマキを聞きたいと思ったことはなかった。俺は普段ポピュラー音楽を聴くこともあるが、なぜかマキが歌っている姿を見たいと思わなかった。それは俺がマキをあくまで《音源》として見ているからなのだろうか。いや──多分俺はただ彼女が別の人間と何かを合奏しているのが見たくなかったのだろう。それは単なるエゴなのかもしれないし、それだけ大事な人という事なのかもしれない。たが俺にはどちらが正しいのか判断することはできなかった。いずれにせよマキが入院したと伝えてきた時に感じた罪悪感は多分その辺りに原因があるのだろうかと思った。

マキに会いたいと思った。マキと会って、また彼女の歌声を聞きたいと思った。


2052年7月12日


一週間で退院できると言っていたマキは、その後も退院できなかった。入院中に新たな症状が見つかったから念の為に精密検査を受ける、と先週に連絡があったのだ。

俺はその少し前のタイミングで、前年から取りたかった仕事が決まった知らせをサカグチから受けていた。トウジョウが世界中に展開するクラブBREWが今年の九月に中東のアブダビに新オープンする予定で、そのオープニングパーティだった。クラブBREWにとって中東最初の拠点となるこのクラブのオープニングパーティは世界中から有名な演奏者を集めた大々的なものになると以前から噂されていた。その場所に呼ばれたことは素直に嬉しく、どうやらヒデトも参加が決まったようで同日に彼から連絡があった。日本から演奏者として呼ばれたのは二人だけのようで今回の吉報に俺達は喜んだ。そんな中で聞かされたマキのメッセージは高揚していたた俺のこころを押さえつけるように突き刺さり重苦しい気分にさせた。しかし、気を取り直し、また見舞いに行くよと連絡すると、彼女からありがとうとすぐに連絡が返ってきた。俺はスケジュールを確認して、翌週の十二日に見舞いに行くと連絡をした。

「私ね、一つカズに伝えてないことがあるんだ」

淡い色の壁とブラインドがついた大きな窓から夕日が差し込む前回と同じ病室の中で、白い生地に青のチェック柄が入ったパジェマを着てベッドの上に座るマキは、前回あった時より少し顔色が良く元気なように見えた。

「伝えてなかったこと?」

「うん、私ちょっと前に病気が見つかってね、それから定期的に薬を飲んでたんだ。今回の入院もその病気が原因でね、もう少し入院が長引いちゃうかも」

「そうなんだ、あまり具合が良くないのかな?」

「ううん、大したことないから全然心配しないで。ただ、ごめん。ちょっと歌を歌うことは暫くできなそうだから、カズの録音に付き合うことはできないや」

「そっか。まあでも少し大人しくしているくらいのほうがいいんじゃない。マキの場合」

と、俺が軽口をたたくと、なにそれ、ひどくない?とマキも笑いながら返してきた。病気が長引いていることや歌声が聞けないのは残念だが、俺はもっと嫌なことが起きそうな予感がしていたし、それが当たらずにマキが元気そうに見えたことが嬉しかった。その後、俺がアブダビの出演が決まった話をするとマキはすごいねと言って喜んでくれた。俺は嫌な予感を紛らわしたかったので、つい勢いで九月になったら一緒に行こうと言ってしまった。言った後にあっと恥ずかしくなったのだが、マキは微笑みながらうなずいてくれたので、ほっとした表情で彼女に笑い返した。三十分ほど話した後、彼女に別れを告げて病院から去ることにした。

マキの病室から出た直ぐの廊下で、思わず一人の女性とぶつかりそうになった。年齢は俺やマキと同じくらいだろうか。ブロンドの軽くパーマがかかった髪と大きな目が印象的な顔で、アップルグリーンのカーディガンと黒いパンツを履いてチェック柄の小さいバッグを持ったその女性は、とても活発そうで健康的な雰囲気があり、病院に似つかわしくなく感じた。

俺はぶつかりそうになったことを軽く謝り横に避けてからエレベータを目指す。木製の手摺が並んだ通路を進み、エレベータのドアの横にある階下に降りるためのボタンを押して暫く銀色のドアの前で到着を待っていると、「あの」と背後から女性の声がした。

振り返ると、先程の女性がそのに立っている。

「すみません、マキのお見舞いに来てくれたんですよね?」

その女性に問いかけられ、俺は怪訝そうな口調で「はい」と答えた。

「私、マキの友人でサトコって言います。あの、なんていうかお礼を言いたくて」

「お礼、ですか?」俺は意味が解らず彼女の目を見て問いかける。

「はい、カズさんのことはマキから聞いていて。…あの娘、友達多くないから病院でも一人で寂しいだろうなって思ってたんです。あのコの両親はお店が忙しいし、私も仕事の合間にしか来れないから。でもカズさんが何度か来てくれているって聞いて私すごく嬉しくて。マキ、カズさんと会ってからすごく元気になったんです…。私が言うのも変なんだけど、ありがとうございます」

俺は何と返答すれば良いのか解らなかったが、この女性がマキのことを大事にしていることは解ったしそれが嬉しかったので、マキさんが良くなるといいですね、と返した。彼女は、はいと言って薄っすらと笑顔を浮かべた後、じゃあマキが待ってるので、と言って小走りで病室まで戻っていった。

その日はまだ時間があったので、俺は車を運転して品川まで行き、小さなカフェに寄って仕事をすることにした。サカグチの知り合いの映像監督から、今度製作するショートフィルムの音楽を頼まれていたのだ。その中国人の映像監督は元々上海にある大手の制作会社で企業やブランド向けのプロモーション映像を作る仕事をしていて、いくつかの世界的な賞を受賞していた。最近は独自した自身の会社を作り、そこでショートフィルムを製作し作品を発表していた。サカグチとは昔の制作会社時代からの知り合いらしく、今回製作する映像と俺の作る音楽のイメージが合っていたためサカグチを通して依頼してきたのだった。

俺は映像に音をつける仕事が嫌いではなかった。映像にタロスで音をつける場合、どうしても入力用のセンシングに利用できる情報が限定されるのと、ストーリーを意識しないといけないため、手動で設定する作業が多くなる。しかし、そういったこととは別であまり得意でなかった。ヒデトはこの仕事がとても得意で、クラブ演奏の百倍楽、と以前言っていた。実際彼はこの手の仕事を大量に請けていて月に多い時は十本くらい制作していたが、俺はそんなにスムーズにはいかず、毎回試行錯誤をしながらなんとか完成させていた。

フィルムである以上、如何に他者の映像とストーリーを活かして、一層それらが際立つような効果的な音を演出できるかが重要なわけだが、俺はなかなか最適な音を見つけることができずに苦労することが多かった。ヒデトに一度だけ相談したことがあるのだが「まあ、お前はもう少し人他人の心がわかるようにならないとな」と、いつものように嫌味を言われ、その時はそういうことじゃないんだよと言い返していた。だが、何故が今日はその時の言葉が否定できないような気がして、ずきっと自分の心臓が締め付けられる感じがした。

全くどうしたんだ、疲れているのか、と自分に問いかけ、コーヒーを一口胃に流し込んで息を吐いた。その後に目の前の端末に表示されている幾度と見た映像を再生した。


2052年8月28日


夏の間、俺はずっと九月のオープニングパーティに向けた準備をしていた。アブダビの会場は当然演奏することが初めてで、且つ失敗が許されないため俺は現地のスタッフと綿密に事前の打ち合わせを重ねた。会場は一週間前からリハーサルで使えるとのことだったので、俺はパーティの七日前である九月六日から現地入りする予定だった。それまでに可能な限り現地の設備の情報を集めて、チューニングをしておこうと考えていたのだ。

今回の演奏で俺は新しい試みをすることを考えていた。会場であるアブダビのクラブは最新鋭の設備を導入していて、通常のサラウンド環境に加えて、天井と床の下にも多数のスピーカーを設置していた。そのため、タロスのオプションを使えば前後左右だけではなく、より広大な上下空間も使った《トリプルS》と呼ばれる音の出力が可能だったのだ。去年からこのオプション出力機能はタロスのバージョンアップで実装されていたのだが、位相の調整も難しく、当時は実際に対応している環境が全くなかった。今年の頭くらいから徐々に対応した場所ができてきたのだが俺はまだ使ったことがなかった。他の演奏家の中でもまだ実験段階と言う意見が多く、積極的にその機能を使う人はほどんど見当たらなかったのだが、俺は今回挑戦してみたいと思っていた。

トウジョウにそのことを相談すると、日本のクラブBREWでも最近そのスピーカー構成のテスト導入をしたそうで、クラブの空き時間に使って良いと言ってくれた。そのため予定をあわせて日本のクラブBREWで音出しをさせてもらうことにした。

トルプルSを使った演奏はまだ少なかったが、前例が全くない訳ではない。そこで、俺は可能な限り演奏された録音や映像を集め、それらをまずは確認することにした。実験段階──という評価は確かに正しく、効果的に使われていると感じられる音楽は少なかったが、集めたいくつかの音の中には参考になりそうな使い方があった。それらを聴きながら、俺自身のタロスの中で利用するためにベストな方法を模索し、クラブBREWが使えるときにはそれらを実際の出音で確認するという作業を繰り返した。

今日も俺は昼間からクラブを使わせてもらい、現地出発前の出音調整の追い込みをしているところだった。この頃には徐々に各定位の効果的な使い方が解ってきていて──当日もかなりの部分でマニュアル操作が必要そうだったが本番の演奏に向けて着々と準備が進んでいた。これ以外にも同時にいくつかの演奏や制作業務を請けていたため最近はあまり寝る時間がなく疲労が溜まっていて、少し体が重くて調子が悪い気がしたが、新たな試みをすること自体にやりがいを感じていたので精力的に動いていた。

そこで、ふとマキからの連絡が一週間くらい来ていないことに気がついた。

マキと病院で会ったのは、七月末の水曜日が最後だった。その日も俺は車で横浜の病院まで移動して、いつもと同じマキの病室へ入っていったのだが、そこで病室のベッドに座ったマキから「来月病院を移る」という話を聞かされていた。どうやら今の病院だとできない検査があるようで、それが可能な設備のある都内の病院に移動するとのことだった。俺は入院が長引くことは前から聞いていたし、マキはいつもと変わらないように見えた。なので、その時はそういうものかと思って特別に気にしていなかった。その日は夜にクラブでの演奏も控えていたためあまり時間がなく、少し話した後で病院を離れ、そのまま演奏する予定のクラブへ向かっていったのだった。

しかし、よくよく考えてみると最初に入院してから既に二ヶ月くらい経っているし、今月はアブダビへの準備やその他の仕事のために病院へ足を運ぶことが一度もできていなかった。八月中も何度か他愛のないメッセージのやりとりをしていたのだが、ここ最近は八月二十一日に俺が送ったメッセージを最後に返信がなかった。

また最近慌ただしくしていたからか、移動先の病院の場所を聞けていなかった。そのため直接訪ねることもできないので、音声通話をするために端末の操作をしてコールしてみることにした。しかし──何度か試してもつながらない。そのため諦めてメッセージを送ることにした。返信がなくて心配していること、もし既に退院したなら一緒にアブダビに行かないか、とメッセージを送った。

こんなことなら見舞いに行った時に移動先の病院の場所を聞いておくんだったな、と思いながらも──俺は自分が意識的に避けていたことを認識していた。俺はマキの病気に対しては無力で彼女の病気を癒やすことはできない。その事実が、俺の心に重くのしかかり自分の無力感を消すようにパーティの準備に没頭していたのだ。

その日の夜、俺はホテルのバーでサカグチと会っていた。

サカグチと実際に対面で会うことはほとんどなく──それは彼が世界中を飛び回っているからだが──その日はたまたま日本に帰ってきていたサカグチとショートフィルムの音楽制作のお礼ということで誘われていたのだった。彼の友人の映画監督は試行錯誤してなんとか完成させた俺の音楽を気に入ってくれ、サカグチに良い感想を連絡してきたらしい。

俺もその話は嬉しかったが、相変わらず目立つ人だな、とサカグチを見ながら全然別のことを考えていた。百八十センチを超える長身に金髪の坊主頭、やや細身だが筋肉質な体格に派手なタトゥーが白いシャツをまくった腕から見えるこの三十代の男は薄暗く照明を落としたホテルのバーに設置されたワインレッド色のソファの中で明らかに目立っていて、彼の風貌が気になる客もいるんだろうな、などと考えながら彼と話していた。

ふいに俺はあることを思い出し、サカグチに質問してみた。

「そういえば、以前サカグチさんの変な噂を聞いたんだけど…」

「変な噂?どんなやつだ?」

「確か、春くらいかな…。サカグチさんがクスリ関係の商売してるんじゃないかって」

「ああ、それな。結構いろんな奴から言われたよ。今年の頭くらいに実際そういう話は来たんだよ。でも俺はこう見えてクスリは嫌いだからな。断ったよ」

まるで何事もなかったようにサカグチは軽い口調で答える。ところでお前、その話だれから聞いたんだ、と言われサティヤの名前を出すのも憚れたので曖昧に濁して話題を変えることにした。

「サカグチさんはさ、他人のことが解らなくなることってある?」

「ん、そんなの普通だろ」

「普通?」

「ああ、そもそも誰も他人の考えていることなんて解るわけないんだよ。俺は今お前と話してるけど、お前が何考えているのか、全く理解してないからな」

「でも…そうだとしたら、サカグチさんの仕事に影響ない?」

「ないね。というか、相手のことが解るなんてこと言う奴がいたら、俺はそいつを信用しない。そんな奴は嘘ついてるか救いようのないバカかどちらかだ。他人が本当に考えていることなんて解らなくて当たり前で、その前提を認識した状態で相手のことを推測したり質問したりするんだよ。聞かれた方もその内容によって相手を意識的に、もしくは無意識の内に判断してるだけだ。」

「それは、相手のことを知らなくてもいい、という意味ではないよね?」

「ああ、当然相手の過去や現状、立場や性格を知ることは必要だ。ただし、それも相手を本当に理解できるからやる訳じゃない。あくまで推測や質問の精度をあげるためにやるんだ。俺だって《あなたのことが解ります》って態度を取ることはあるぜ。だが、それは単にその行動が相手に判断させる手段として意味があるからやってるだけだ。それ以上の理由はないね」

その答えを聞いて俺は何故か少し救われた気がした。その後に俺はまだ伝えてなかったアブダビの出演を決めてくれたお礼を言い、今考えているトリプルSを使った試みを伝えた。すると、上手く言ったら面白いことになりそうだな、とサカグチは何か頭の中で別のことを考えているような様子で答えた。

サカグチと話している途中でも俺の頭の中には何かざらざらとした嫌な感触のものが喉の奥底に残っているような嫌な感触があった。《クスリ》という言葉がどうも頭の中に残っている。俺はクスリという言葉から、病院やそこに存在するベッド、そして何かの薬を摂取しているだろう彼女のことを思い浮かべていたのだ。俺はマキがどんな薬を飲んでいるのか知らないし、どんな治療をしているのかも知らない。そう、俺は何度も会って声を録音したが、彼女についての現状を知らないことが多いのだ。

──そう考えると急に不安になった。サカグチと別れたらもう一度電話してみよう。そう思いながら俺は目の前のローテーブルからグラスを手に取り、少し残っていた冷えたハイボールを飲み干した。

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