見出し画像

雨あがりの夕暮れどき        ~人と逢うということ~

コロナ禍がなかなか終息を観ない中、蔓延防止重点措置が解除された。それを待っていたわけではないが、急遽一日のうちに三人の友人を逢うこととなった。

一人は学びの、生活の、人生の先輩。我が家・古家の長屋へお招きした。繁華街でカフェで…もよいのだが、わたしがゆっくりとしたかった。家の方が音や時間を気にせずにお会いできると思ったので初めてお招きした。そのような感覚をお持ちとは、少しは想像していたが、やたらと恐縮される。わたしも寄る年波でいき届かないところだが、わたしが招いたのだからおもてなしをさせてほしい。手ぶらで来てね、と言ったのに「頂き物でおすそ分け」ということで百貨店の紙袋に苺をいただいた。そのようないいわけもあるのだな。こちらが恐縮である。お昼を店屋物ではあるがご用意した。三年前のわたしならわたしなりの手料理で…というところだが、これもカレイの成せる業である。無理せず、彼女との時間を楽しむために必要なことだ。ひとしきりお話をして、お茶をいただいて、本当にあっ!という間である。       長居をしたと席を立たれたのは、わたしの予想よりも一時間程早かった。楽しみも腹八分目、別れの言葉は「次回は共通の友人を交えて」近いうちにと。楽しみは続いていく。

家族の買い物やら、ちょっとした家事をすます時間ができた。これまでと少し違う感覚が残る。刻一刻と変わっていく状況、カレイする自分、そして変化していく関係性。どれも大切に感じ取っていたい。そして願わくばそれぞれが幸せな方向へと延びていくことを願う。

アバウトな待ち合わせ時間を提示されていて、連絡を待ちながらいたが、もうすでに席についているとの連絡が入り、少し軽んじられている感が響く。いつものことだが、ご近所のママ友の気軽さだろう。その少しのずれ感よりも三人で逢うことを大事にしたい。                  わたしはその人と連絡先を交換していない。でもこの人はわたしも交えたいのだ。この人は愛嬌があっていじられキャラを引き受けていて可愛い人。我が家の裏手に住むこの人は隣町へ引っ越す。準備の忙しい時ではあるが、その人が会おうというので時間を作ったようだ。そこにわたしも声をかけてきた。わたしはその人の笑顔が好きになれない。人をいじるジョークも好きになれない。なぜかしっくりこない。急な集まりでこの人は引っ越しの用事で先に帰ってしまった。わたしはその人とその後一時間程、おしゃべりをした。その人は福祉系の仕事をしていて、4つも資格をお持ちで、今年定年でその後嘱託で仕事を続けるとのこと。お子さんたちも皆立派に自立されていて、申し分ない。ご自身もよく頑張って来られた。それらを尊重しつつ、ご近所の関係はできれば継続していくことが望ましい。どんなことでお世話になるかもしれない。この人の引っ越しがひと段落したら、また一緒にということで別れた。

久しぶりに人に逢った。という日であった。これまでの人生の中でこの二年間ほど人に逢わず、一日黙って過ごした日々が多かった時期は無かった。人は一日誰とも話さなかったら、声がかすれる。家人が帰ってきて話そうと思っても声が出てこない。人に逢うとなんだかんだとおしゃべりが続くし、気を使ったり使われたり、人の営みとして当たり前のことだし、なんでもないことなのだろうけれど、そのことが本当にありがたい。

このようなひとときが生活の中にあることに感謝。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?