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日本神話と比較神話学 第十三回 海の魔女と犬の子たち 磯良、セドナ、スキュラ

1 はじめに

 阿曇磯良(あづみのいそら)は中世の伝説に現れる海の神である。阿度部磯良(あとべのいそら)ともいう。『太平記』によると神功皇后は三韓征伐に際しもろもろの神々を招いたが、海底に住む磯良だけは顔にアワビやカキがついて醜いことを恥じ、現れなかった。そこで住吉神が舞台をきずき磯良が好む舞を舞わせると海底から白布で顔を隠した磯良が現れた。磯良は海水の満ち引きを操る宝珠を神功皇后に献上し、皇后はそれによって三韓征討に成功したという。磯良は安積氏の祖神であるともいう。
 磯良は男神であるともされるが、醜さを恥じたなど海の女神ではなかったと思われる。磯良が醜い容貌の女神であるとすると、記紀神話に現れるイワナガヒメを連想させる。以下はイワナガヒメが登場する記紀神話の一節である。

天孫(天界の王族)のニニギノミコトは地上に降り立つと、海辺の笠沙の岬という場所で、美しい娘と出会った。ニニギが尋ねると娘は、オオヤマツミノカミ(山の神)の娘コノハナサクヤヒメまたの名をアタカシツヒメであると名乗った。ニニギが彼女に求婚すると、彼女は父親のオオヤマツミに相談するように求めた。オオヤマツミは天孫・ニニギの娘への求婚を喜んで、コノハナサクヤヒメの姉・イワナガヒメも副えて、二人の娘をニニギのもとに遣わした。しかしニニギは姉・イワナガヒメの要望が醜いことを畏れて姉だけを返してしまった。オオヤマツミは「イワナガヒメを妻にすれば天孫の子孫の寿命は岩のように永くなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば天孫の子孫は木に咲く花のように栄えると、誓約をしたのに、天孫はコノハナサクヤヒメとだけ結婚されたので、天孫の子孫は寿命は木の花のようにはかなくなるだろう」と嘆いた。これが天孫の子孫(または人類)の寿命が短い由来である。異伝では寿命が短くなったのは恥をかかされたイワナガヒメの呪いだともいう。

記紀神話より

 イワナガヒメは山の神の娘である。しかしオオヤマツミをまつる神社の総本社である伊予の大三島神社は祭神オオヤマツミ(三島明神=御島明神)を山の神・海の神(渡しの神=航海の神)として祀っているように、両者は表裏の存在である。オオヤマツミの娘・イワナガヒメとコノハナサクヤヒメは海の上の機織殿で、機織りをしていたという。古代の世界観では山と海は相互に入れ替わっていたらしい。 
 近代以前のヨーロッパでは地質学・古生物学の未発達のため、山岳で見つかる海の生物の化石が聖書に見られるノアの時代の大洪水の痕跡であると考えられていた。 
 また日本の民間の風俗・植物研究者の南方熊楠の論文『燕石考(Swallow Stone)』では、燕が冬は海に潜り蛤となって過ごしているという中国の俗信を紹介している。同じく南方熊楠が、随筆「山神オコゼ魚を好むと云う事」で紹介している日本の俗信によると、山の女神は自分の顔が醜いので、同じく容貌の醜い海の魚のオコゼをささげられると喜ぶという。これらの俗信も、山または平地と海の交替という世界観を示唆するものである。
 オオヤマツミの二人の娘のうち、妹のコノハナサクヤヒメは天孫のもと(地上)に残り、姉のイワナガヒメは元いた場所(海)にもどったとすれば、海底にすむ磯良とイワナガヒメの近縁性を考えることは可能であると思われる。
 コノハナサクヤヒメはまたの名をアタ・カシツヒメという。アヅミ・イソラまたはアトベ・イソラとは、本来、アタのイソラまたはアタ・イソラヒメといわれていたのではないだろうか。
 コノハナサクヤヒメの子どもの一人・ホデリノミコトは海洋民・隼人のアタの君の祖先である。つまりコノハナサクヤヒメの子孫は「アタ」を名乗っている。「アタ」の名が山の神の姉妹に由来する名であるとすれば、イワナガヒメにもアタ・イソラヒメという名があったとも考えられる。

  • コノハナサクヤヒメ=アタ・カシツヒメ

  • イワナガヒメ=アタ・イソラヒメ

 山の娘・イワナガヒメは天孫に追いやられたことを恨んでイソラという海の魔女になったと、小論では考える。
 以下、「海の魔女」という神格に関して諸外国の神話との比較検討を行う。

2 犬祖神話

 北アメリカ大陸・極北地帯の先住民・エスキモーの間では「海獣の母・セドナ」の神話が伝承されている。セドナは海に住む動物を支配し、また人間の祖先でもある。嵐や不漁を引き起こすともされ、人々から畏れられているセドナは「海の魔女」であるといえる。

 パドゥリの村にはアヴィラヨックという結婚したがらない娘がいた。村には白と赤の斑点がある石があったが、この石が犬に姿を変えこの娘と結婚した。娘はたくさんの子どもを生んだが、その子供たちがうるさかったので、娘の父親は娘の家族を向かいの島に追いやった。娘は毎日、家族が食べる肉をもらいに、夫の犬を父親の小屋へ行かせた。
 ある日夫の犬が父親の小屋へ行っている間に、一人の男がカヤック(両漕ぎの小舟)で島を訪れた。男に誘惑され娘はカヤックに乗り島を離れた。新しく来た土地は人のたくさん住む場所で、娘はこの新しい夫がウミツバメであることに気づいた。
 一方、娘の父親は娘を探して舟で娘のところまでやってきた。そして娘を連れて海に逃げ出した。しばらくすると妻である娘が逃げたことに気づいたウミツバメが追いかけてきた。ウミツバメが嵐を起こすと父親と娘の舟は沈みそうになったので、畏れた父親は娘を海へ投げ入れた。父親が船べりを掴む娘の指の先を斧で切ると、指はクジラになった。さらに指を切ると、それはアザラシになった。さらに手首でしがみつく娘の左目を叩くと娘は海に落ちていった。父親は舟で逃げることに成功した。
 元の島にたどり着くと、父親は残された娘の前夫の犬に石を運ばせ溺れさせた。それから波際でテントをかぶって寝た。満潮となり、やがて波が引くと父親の姿は消えていた。島に残された子供たちは現在の人間の祖先になった
 海に沈んだ娘はセドナになった。海底(死者の世界)で石とクジラの骨でできた家に住んでいる。目は一つで歩くことはできずいざるだけである。父親は同じ家に住んでいるが、テントをかぶって横になっており、犬はその戸口にいる。

エスキモーの神話。『世界神話事典』より。

 アラヴィヨックとその父親は巨人で、現在の人類より以前の人類であったともされる。以下、上記のセドナの神話をまとめよう。

  1. 「結婚したがらない娘」がいた。

  2. 娘は赤と白の斑点のある石から生まれた犬との間に人類を生んだ。

  3. 娘は海の底に沈んで、海を支配する女神(海の魔女)となった。

  4. 娘の住む海底(死者の世界)には犬が一緒にいる。

 日本神話と比較すると「1.」については、イワナガヒメは天孫から結婚を拒まれている。(「結婚したがらない娘」とは真逆だが、婚姻に対し否定的な点は共通する)「3.」は海底にすむ磯良は潮の満ち引きを操る宝珠を持っている、つまり海を支配している。セドナはいざる(足を引きずる)という。磯良には足の障害の伝承はないが「いそら」という名は「いざる」と関わるかもしれない。(あるいは「漁り(いさり)」と関わるか)
 犬に関わる神話に関しては考察を要する。
 磯良は舞いを喜び神功皇后の前に現れた。各地の磯良を祭る神社ではこの伝説に基づき磯良舞という舞いが奉納されているが、奈良春日大社では細男(せいのお・さいのお)の舞と呼ばれている。細男の舞は猿楽のような滑稽なしぐさであるという。猿楽の起源は日本神話の天の岩戸の段において、アメノウズメが舞いを演じ神々を笑わせたことに由来するともされる。しかし磯良との関係は見出しがたい。
 おそらく磯良舞とは隼人舞ではないだろうか。
 隼人舞とは隼人族が貢納する舞芸の事で、日本神話の海幸山幸の伝承に由来する。コノハナサクヤヒメの子どもである海幸彦(ホデリ。隼人族の祖先)と山幸彦(ホオリ。皇族の祖先)は釣り針の貸し借りを巡って争い対立するが、海の神の助けで潮の満ち引きを操る宝珠を得た山幸彦は、海幸彦を溺れさせ降参させた。海幸彦(隼人族)は山幸彦(皇族)に屈服して、守護者として仕え、また溺れた時の姿を舞いとして献上することを誓った。これが隼人舞の起源である。
 隼人舞は滑稽なもので、海と関わる。磯良を喜ばせた磯良舞とは隼人舞の事ではないだろう。また日本書紀一書・神代下第十段第二によると海幸彦は「狗人(いぬひと)」ととして仕えると命乞いしたという。隼人は「吠える人」の意味であるともされ、この伝承は隼人に犬祖伝承(民族の祖先が犬であるという伝承)があった痕跡であると論ずるものもある。
 以上のように隼人舞の伝承を考えると、セドナ神話の「2.」の犬祖伝承も磯良に関わる。「4.」の死者の世界の犬に関わる伝承は日本神話では不明瞭である。

 エスキモー神話以外でも、民族の始祖を犬(狼)の子どもに求める犬祖神話は広範囲に広がる。中国では槃瓠神話が知られている。

昔、中国の伝説的な王朝・三皇五帝の一つ、帝(こく)嚳・高辛(こうしん)氏の時代、敵国の襲撃に悩まされていた帝は、敵将の首を取ってきたものに莫大な褒美と、自分の娘を嫁に与える旨を天下に布告した。そのころ、帝のもとには五色の毛並みをした槃瓠(ばんこ)という犬が飼われていた。この犬は姿を消すと敵将の首を持って現れてきた。帝は娘を犬の嫁にすることをためらったが、娘の申し出もあり、結局娘を犬に与えることにした。犬と娘は人の通わぬ山の洞窟で暮らし六男六女をもうけた。娘は父のもとに帰ったが、犬の子どもたちは兄弟姉妹で夫婦となり長沙の武陵蛮という蛮族の祖先となった

『後漢書』による。『世界神話事典』より

 セドナ神話同様、犬と女の間にたくさんの子どもが生まれたというのは、犬が多産と関わるだろう。日本の民間信仰では犬は出産を助けるという。(同じく日本の民間伝承では山の神は醜い容貌の女神で、多産だという。東日本では山の神は「十二様」と称される。一年で十二人の子を生すからだという)
 他の地域でも犬祖神話は見られるが、洪水神話とのかかわりが多くみられる。洪水で人類が絶滅し、生き残った女と犬が子どもをなし、その子どもが民族の祖先となる。しかし、子どもはそうと知らず自分の父親である犬を殺してしまい、そのため、その民族では犬を殺さないという由来が語られることが多い。
 日本神話でも同様に、犬祖神話の痕跡を残していると思われる隼人伝承は洪水神話である。セドナ神話においても、娘(セドナ)の新しい夫のウミツバメが引き起こす嵐や、セドナの父親を呑み込んだ満ち潮は、山幸彦が宝珠で引き起こした大潮(洪水)を連想させる。

3 四つ目の犬

 セドナの夫の犬は海底(死者の世界)の門番となる。(「4.娘の住む海底(死者の世界)には犬が一緒にいる」)
 このような「冥界の犬」の神話はユーラシア大陸に広範に伝承されて入れ禹。以下は日本のイラン研究者・井本英一「古代イランの犬」を参照している。
 広く伝承される「冥界の犬」は四つ目であるとされる。
 インド神話で最初の死者であり死者の国の支配者であるとされるヤマ王には四つ目の犬が仕えている。インドのヤマ王と共通するイラン神話の神格イマ王(ジャムシード)には直接には犬との関わりは見出せない。しかしイラン神話にはチンワト橋(この世とあの世の境の橋)を守る二匹の犬が現れる。ギリシア神話でも冥界の番犬である多頭犬(古くは二頭とも)・ケルベロスが現れる。ヤマの犬の形容詞「シャルバラス(まだらの)」はケルベロスの名の語源でもあるという。
 四つ目犬とは目の上に眉のような斑点のある犬である。各地の神話に残る冥界の入り口を守護する多頭犬とは、四つ目犬、斑点のある犬のことだったのだろう。モンゴル人(チンギス・ハーン)の祖先である「蒼き狼」も本来は「灰・青」の雑色(まだら)のことであったらしい。
 では「まだらの犬」とは何か。
 セドナ神話では冥界の犬は「赤と白の斑点のある石」から生まれている。「まだらの犬」とは、本来は「赤と白の斑点のある石から生まれた犬」を指すのではないだろうか。それでは「赤と白の斑点のある石」はいかなる意味があるのか。
 古事記に現れる新羅(古代朝鮮半島の国)から渡来した神アメノヒボコの妻・アカルヒメは次のような経緯で誕生した。「新羅の国の沼のそばで昼寝をしていた女の陰部に日の光が当たるとたちまち孕んで、赤い玉を生んだ。それを見ていた男は女から赤い玉を譲り受けた。男が牛を連れていると、それを見た新羅の王子アメノヒボコが男が牛を殺そうとしていると考え男を牢屋に入れようとした。男は赤い玉を差し出して許しを請うた。アメノヒボコが赤い玉を持ち帰り家に置くと、玉は美しい女性・アカルヒメとなった。アメノヒボコはアカルヒメを妻とした」
 このように太陽の光を受けた女性が子を孕む説話を「日光感精神話」という。生まれた子供は太陽(神)の子だとされ、王朝(民族・人類)の始祖や英雄となる。
 赤と白のまだらの石とは、太陽の精を享けて孕んだ石(卵)なのだろう。
 犬祖神話と冥界の犬の神話、まだら石(太陽の卵)から犬が生まれる神話と、まだらの犬が冥界の守護者となるという神話はいかにして結びつくのか。

4 結婚したがらない娘

 北アメリカ大陸に広く分布する「アビ女」を主人公とする神話がある。

オオヤマネコの一家がいた。五男二女の中で末の弟は美しかったので両親は末の弟を隠して育てた。家族の中でも上の姉は弟を溺愛しており、結婚を拒んでいた。ある時、両親は上の姉に隠して末の弟を湖にある島に移し、下の姉に世話をさせた。上の姉が弟の居場所を見つけると下の姉は弟を連れて葦の舟で逃げた。怒り狂った姉は火を起こし、家族を焼き殺した。生き残った下の姉は犠牲者の心臓を集め首飾りにし、復讐の機会を待った。ついに上の姉の寝込みを襲った下の姉は、姉の首を斬り心臓を奪い、姉をアビに変えた。姉はアビ鳥になり、水の底で暮らすこととなった。下の姉は魔法で家を戻し骨から使者をよみがえらせた。

モドック族の神話

 アビ女の神話では結婚したがらない娘がアビに変えられ、水底で暮らすこととなる。(この神話を伝承する部族では、アビの肉を食べることが禁じられているか、味の理由でアビ肉を食すことがないという)また、アビは鳴き声などから不吉なイメージを持つ。
 セドナの神話はこのアビ女の神話の要素を共有している。(傲慢な夫のもとを立ち去り、海を越えて日本にわたるアカルヒメの神話も「結婚したがらない娘」の神話の要素がある)
 この結婚をしたがらない娘のモチーフが、中国の槃瓠神話のように犬祖神話に結びつくのは必然性があるように思える。結婚を拒む女性が太陽から生まれた犬との間に子供をなすというのは、独力で子供をなす(太陽の子どもを孕む)ということに接近する。(結婚を拒むセドナにも父親との対立がある)
  それでは「結婚をしたがらない娘」が「海の魔女」となり、「冥界の支配者」となるのか。

 イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの神話は「石とバナナ」型の神話に分類される。具体的にはモルッカ諸島では次のような神話が伝承されている。

太古にバナナの木と、石が人間がいかにあるべきかを争った。石はいった。「人間は石のようにあるべきだ。人間はただ右半分だけを持ち、目も耳も手も足も一つでいい。そして不死であるべきだ」バナナの木もいった。「いや、人間はバナナのようにあるべきだ。目も耳も手も足も二つずつ持ち、バナナのように子を産むべきだ」石とバナナの言い争いはバナナが勝ち、人間はバナナのように死ぬようになった。

モルッカ諸島・セラム島・ウェマーレ族の神話。『世界神話事典』より

 セドナは片目で足が不具であり、山の神は片目・片足で寡婦だという。「ちんば山の神の片足草鞋」ということわざが下伊那郡にある。(柳田国男「日本の伝説」)
 海の魔女たちは、石の生を選び、多産でありながら半分の生すなわち冥界の生しか持たない。この世での死があの世での誕生であるとするならば、冥界の犬たちが死者を逃さないのは、死者たちが彼女の子どもだからなのだろう。
 最初に、イワナガヒメは魔女イソラになったといった。しかし、逆にいうべきかもしれない。海の魔女とはイワナガヒメたちなのだと。

5 おわりに

 最後に、いまひとつ、海の魔女を取り上げる。
 ギリシア神話の怪物スキュラは一説によると、女性の上半身の下に六匹の犬がついた姿であるという。(「スキュラ」の名は「犬の子」を意味するともいう)怪物スキュラと大渦カリュブディスの間を抜けるとは「前門の虎後門の狼」と同じ意味の、進退窮まった様子を示すことわざである。オウィディウス『変身物語』によると怪物スキュラの由来は以下のようなものであった。

美しい女スキュラは海の神グラウコスに言い寄られたが、彼の怪物のような容貌に恐れをなし逃げてしまった。あきらめきれぬグラウコスは魔女キルケのもとを訪れ、惚れ薬を求めた。グラウコスを愛するキルケは彼をいさめるが、グラウコスは聞く耳を持たない。怒ったキルケはスキュラが訪れる淵に魔法をかけた。そうと知らずに訪れたスキュラが、淵の水に腰までつかると水面に吠え立てる犬の怪物どもが見えた。恐れてスキュラは逃げ出したが怪物は離れない。やがてスキュラは自分の腰から下が犬どもになっていることに気づいた。その後、キルケを恨むスキュラは海上を行く船を沈める怪物となってしまった。

オヴィディウス『変身物語』十三巻・十四巻より。岩波文庫 下巻 中村善也 参照。

 怪物スキュラは犬の子を産み生と死を支配する、偉大なる海の魔女の、大西洋の東側における痕跡なのだろう。

参考文献

工事中。

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