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森を歩くと癒される理由

昨年、結構頻繁に(当社比)森歩きをしてきながら「森で癒される感覚って、どういうことだろう」というのをなんとなく考えていました。
自然の解放感に癒されるとか、街から離れたところに移動したから視点が変わって気づきに癒されるとか、体を動かすことで身体面から癒されるとかもありますが、それだけではない気がしていました。

12月半ば、森で一人で過ごしていて揺れる木をじ〜っとながめながら考えていて、それが何なのかという答え(暫定)につながっていきました。

森では基本的に、人工物ではない自然のものに囲まれて、どこで何を見ても自然のものの性質や理がそこここで見られる環境です。
養老孟司さんがよく「(自然は)そうなってるんだから仕方ないだろう」と表現されているように、「設計意図がある(なぜそうなっているのか説明できる)人工物」とは違い、自然はただこの世に流れている法則に従っているだけです。従順に。(その有様を観察して法則(理)を見出そうとするのが自然科学であり、あくまで論文という形で表現されるまではなぜそうなっているのか説明できないのが自然)。自然は自ら理に反することはせず、自分がいる環境と自分の個性や能力に従って、素直に存在して自ら増えて成長して循環しています。

一方、人間社会ではおかしな論理もまかり通っていて、人を病気にならせたり時には死なせるような言葉や構造が数多く存在しています。
あらゆることに正解・不正解はないとしても、自分を生かす(活かす)のか殺す(不活化させる)のかは分別して選んだり避けられたらいいと思いますが、「地獄の道は善意で舗装されている」とよく言われるように、分別は難しいです。それで、自分を殺す言葉だとしても世間的には当たり前と言われている言説を信じて苦しむ人は多いと思います。
(「24時間働けますか」とか「男だから/女だから、◯◯しろ/するな」とか…。)

一人で揺れる木を眺めながら、私にとって森歩きとその中での自然観察は「基準(ものさし)を校正する」行為に近いのだと思いました。

例えば、風が吹けば木は揺れるし、風が強すぎたり木がひょろっと細長かったりすると折れやすいのは森を見ていれば当たり前の現象なのですが、人の心にも同じ道理があると考えると、心折れることがあったとき「自分の頑張りが足りない」というだけで捉えるのは妥当なのか?と思えてきます(日本人は自己責任の意識が強すぎて、自分を責めがちです)。木が細いからかもしれないし、風が強すぎるのかもしれないし、まだ支えが必要な成長段階なだけかもしれないし……という見方もできるようになります。

(自然の道理と人生や社会の道理を重ねてみることは、ごく自然なことなのかなと思います)

実際、私は数年前にうつで会社を辞めた経験があるのですが、その後、数年かけてうつになりやすかったところからバランス感覚を獲得していくことができ、今ではぶっ倒れるようなうつ状態にはほとんどならなくなりました。その過程で、ガチガチに凝り固まっていた偏屈な認識をほぐしていくことがものすごく重要なステップでした。(「〜ねばならない」「できない自分が悪い」「言い訳してはならない」、などのいわゆる呪いの言葉が思考をガチガチに縛っていたので…)

自然観察は、自分のズレた認識を修正したり、ふんわりした脳内イメージの解像度を上げていく作業にもなっていて、それがいつの間にか脳(心)の治療にもなっているんだな、だから癒される感じがするのか〜、と思うようになりました。
自然の有様を見て、「ああ、これでいいんだ」と思ったり、おおらかさに包まれて安心するようなことってないですか?それのことです、私が言いたいのは。

生まれたばかりの赤ちゃんはまだ視覚が未発達で明暗とかしかわからなくて、脳が映像を認識できるようになるまでに何か月かかかるそうです。毎日目に入る光の情報と現実の世界(色や大きさ、距離感、質感、動きの速さなど)を絶えず擦り合わせながら、脳の方を常に作って(学習)しているそうなのですが、こんな感じで、現実の道理と脳の認識をすり合わせたりズレを修正したりする作業が今もなお続いているのかな〜などと思ったりしています。

特にオチはないですが、森歩きしてて癒されるのはこういう側面もあるんだな〜というのを、昨年末ごろになんとなく言語化できて嬉しかったという話でした。

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