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草花とコミュニケーションをとった気になる

暖かくなってきたので、近場の公園や少し離れた山を歩いたりしている。
家の周りはあまり散歩する気にならず、いい雰囲気のところまでわざわざ出かけないと歩こうと思えない。というのも、この頃疲れ気味で、あらゆることに気力が湧かず、よほど興味関心のそそられることじゃないと動きたくない状態なのだった。でも体を動かさないと負のスパイラルを進んでいってしまうので、とにもかくにも体を動かす動機作りを大事にしている。

というわけで、公園や山などを何度か歩いていると、いろんな動植物が目に入る。春なので特に今はいろんな花が咲き、草木の芽が出ていて、見るものがとても多い。そこで目に留まったものを写真に収めていくのだけども、そういう視点で草花を見ていると「心地よさ」へのアンテナが敏感になる。

伸び伸びと枝を伸ばしている大きな桜からは大事にされてきたお坊ちゃん感やスター性みたいなものを感じるし、切り揃えられた芝生の中でポツポツと頭を出しているたんぽぽからは「ここで足を止めてみようかな」と思わせる安心感があるし、きれいな椿の木が植えられていると「ここでちょっと癒されていきな」と言われているような気さえする。切り株の隙間から芽吹いている若枝からは次世代を担う矜持のようなものも感じる。
一方、踏み固められた土のところに所狭しと窮屈そうに植わっている植木や街路樹からはあまりそうしたものを感じ取れない。単なる私の偏見かもしれないけど。

人と接する時、見た目は同じただの人なのだけど、ある人は安定感や「ここにいてもいい」という安心感を醸し出しているし、ある人は構って欲しいのにそう言わずに察してオーラを出しながらも構われずイライラしている面倒臭さを醸し出しているし、ある人は近づくと傷つきそうな寒々しさを醸し出している人がいる。それに似ている。

今日見たたんぽぽは「まあちょっとここにおいでなさいよ」と言っていた。言ってないけど。たんぽぽは勝手に生えてきた野草だから、多分たんぽぽ自身が持っているメッセージなんだろうと思う。
一方、椿は人が手入れしている庭木で、手入れされているからこその美しさとゆとりがある木だった。この椿が「まあちょっと癒されていきなさいよ」と言っているような気がするなら、手入れしている人の雰囲気が椿から漏れ出ているのかもしれない。

自然に生えている草木は伸び伸び生き生きとしている時に、見ていて安心する。たぶん、土や周りの草木との相性が良くて、生態的なバランスがうまく取れている状態のものだと思う。単一種だけが偏って草ぼうぼうになっていたり鬱蒼としていると見ていて少し不安になる。
庭木はきちんと手入れされている時に、見ていて癒される。管理されてあるべきものが草ぼうぼう枝ぼうぼうツタぼうぼうだと、いたたまれないというか、癒しどころじゃなく、心配で不安になる。

「ここにいていいよ」「ここで癒されていくといいよ」という余裕を感じるメッセージは、その草木が置かれた環境と生育状態が良い時に醸されてくるのかもしれない。

「おっ。元気?」と言ってると思う。
のびのびと枝を広げる桜の大木にはスター性がある。「みんな当然、私のことが好き」と分かっている。私が何かの花の木になるならたぶん桜ではないと思う。

(私のフィルターが「この草花は生育環境いい感じだから余裕があるはずだ」と無意識にレッテルを貼っているだけかもしれないけど)、なんとなく草花と意思疎通できたような気になったという話。

ちなみに昆虫は、こちらに全然関心がない気がする。そもそも認知されてないと思う。
草花は虫や動物に寄ってもらって触ってもらう(受粉)ために進化を重ねてきたわけなので、そこに生えて生きているだけで「おいでなさいな」「ちょっとここで癒されていきなさいよ」というメッセージを発しているというのは見方としては間違ってない気もする。

私に興味がないスコットカメムシ

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