「ただ見えなくなるだけだ」なのか?

デスカフェを開催し始めて、1年と少し経った。
3年前の父の死を機に、死別の悲しみや、そもそも人が死ぬことの意味をずっと考えてきた。
これは私だけが思っていることなのか?
他の人は死についてどう思ってるのか?
そう思いながら気がつくとこの3年、死について何も考えない日はなかった。

私は死に取り憑かれているのか?
そうとも言える気もするし、そうではないとも言える。
死を考えると言っても、ずっと希死念慮があるわけじゃない。
ただ、死とは何かをいつも考えている気がする。

「死とは何だ」
ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。
         横光利一『春は馬車に乗って』

学生の頃に読んだこの文章が、死を考える時に常に頭をよぎる。
私は大学で日本文学を学んだが、思えば昔から好きな文学作品は何かしら死をテーマに扱っていた。

夏目漱石『こころ』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に始まり、梶井基次郎『桜の樹の下には』、福永武彦『草の花』…
そして卒論に横光利一『花園の思想』である。
他にも枚挙にいとまがないが、とにかくどこかしら死がテーマに絡んでいるものばかりだ。
そういえば好んで読んでいる村上春樹作品も、好きなものは死の描写が必ずある。
そもそも文学は人間の有様を突き詰めて書かれるという性格上、死を扱うものが多いのかもしれない。
そう考えると文学を志向した時点で「死」を考えることが始まっていたのかもしれない。

そう考えると、文学作品を愛する人たちは少なからず「死」に関心があるのかもしれない。
そう思うと多少救われる気持ちになる。

いつもデスカフェの告知で「死生観を考えることは大切です」と言いながら、どうして大事なのかうまく説明ができなくて悩んでいた。
単なる事務的な指示を残した終活とは違う。
死生観を見つめ直すことで豊かな生を送ることができるはずだと思ってきたけど、そう思わない人にどう話せばわかってもらえるか?
それがずっとわからなかった。

でも、そんなことは説明するよりも、優れた文学作品を読んでもらった方がいいのかもしれない。
作品について語り合えば、それはそのまま死生観の話につながっていくだろう。

…なんてことを思いつつ、じゃあ本を読まない人にどう伝えればいいのか?という問題の答えはまだ出てこない。
そういう人にはnoteだって届かないだろう。
そしてまた問題はふりだしに戻っていく。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。