“世界の裂け目”が足りない|鷲田清一著『想像のレッスン』
お正月に地元の本屋さんで見つけて、買って読んだ鷲田さんの『想像のレッスン』という本。
その中の一説を引用する。
大樹と寺社と場末に共通しているのは、それらがこの世界の<外>に通じる開口部や裂け目であるということだ。
わたしたちの日常の共通感覚(コモンセンス)をひきつらせるという意味で、妖しい場所である。
そして妖しいというのは、怖いけれども(あるいは、怖いがゆえに)どうしようもなく惹きつけられる場所ということでもある。(「想像のレッスン」p41より)
この話は、『想像のレッスン』以外の、鷲田さんの別の本でも出てきたエピソードだ。
この「世界の<外>に通じる裂け目」だとか「妖しい場所」について、最近、ふと考える。
「世界の裂け目」を訪れるときは、なにも、冒険したいときばかりではない。
「世界の裂け目」は予告なく現れる、ハレとケの接続点。
その接続点は、心躍る未知なる旅の出発地点……だけでなく、なにもかもから目を背けたいとき、誰もいない自分だけの声を反芻したいとき、心を落ち着かせたいときに立ち返る場所。
“孤独”の感触を確かめられる場所。もしくは否が応にも、確かめざるをえない場所。
それってつまり、“死”に近い場所なのでは、とも思う。
「裂け目」にのまれてしまうと、こちらの世界へは、なかなか戻ってこられない。
戻ってこられるようにするには、“死”と同じくらい“生”にも肌触りを感じている必要がある。
なにを言っているか、分からないでしょう。わたしも分かりません。
でもとにかく、この「世界の裂け目」が、生きていくためにはとても重要なものなのだという気が、してならんのです。
同時に、その裂け目は──鷲田さんも先述の著書で言及しておられるが──どんどん埋め立てられているのです。
ピカピカツルツルの完全無欠の世界には、死もなければ生もない。
臭いものに蓋をして、腐敗しているのは、ただの土?
見ないように、見ないようにと、避け続けた視線の逃げ場は、もうそろそろなくなってきたんじゃない?
孤独に脈うつ生きる血が、世界の裂け目を教えてくれる。
余談だけれど、わたしは小1くらいのときに、映画『オズの魔法使い』の続編を描いた『Return To OZ』と『もののけ姫』を観た。「世界の裂け目」について考えることについては、10歳にも満たない時分にこれらの映画を観た影響があるのかもしれぬ、などと呑気に思っている。
小さい頃に好きになったものや衝撃を受けたものが、ウン十年後にめぐりめぐって自分を助けてくれたり、原動力になってくれたり、未来へのヒントを教えてくれることって、あるなと、思います。
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