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イギリスの「SICK! Festival」が気になる理由

2017年の3月に、イギリスのブライトンという街で、「SICK! Festival」というお祭りがある。

お祭りというか、イベントだ。

「SICK! Festival」は身体、精神、そして社会に対する解毒剤のようなフェスティバルです。芸術と健康にまつわるプログラムの中でも、最も重要な点は、このフェスティバルは、研究者、医療従事者、慈善団体、そして私たちが取り組む心身に関わる病気や課題をすでに経験した人たちと、傑出したアートプログラムを結びつけ同居させ、展開しているという点です。SICK! Festivalの重要な目的は、参加者やアーティスト同士の会話を通して、彼ら自身の経験と自分自身で考えたことを共有し、そして人々のつながりを生み出すことです。(立花による意訳)

詳しくはこちら(SICK! Festival Presenter Interview)。わたしがこのイベントを知ったきっかけになった記事です。

開催地はイギリス。Brexit(ブレグジット)を経て、一体イギリス国内はどんな雰囲気なんだろうというのも、気になるところ。

「SICK! Festival」は、主に精神障害や病気を持っていた、あるいは持っている人が表現者となり、英語で観客とディスカッションしたり、ダンスや芝居を行ったりする。おそらく、字幕はない。

わたしの英語は2016年11月現在、日常会話レベルくらいで、アートや病気に関わる議論ができるほど達者じゃない。でも、行くならばらやるならば、徹底的にやりたい、観尽くしたい。去年のキューバひとり旅の時の「日常英会話すら出てこない言語能力の低下と停滞」に心底ゾッとして、以来なるべく英語に触れるようにしている。それに、ここ半年くらい、このイベントのことで頭の半分くらい、埋まっている。

どうしてここまで「SICK! Festival」が気になってしょうがないのかということを整理するために、今日はnoteを書く。

一つは、このフェスティバルを知った頃とほぼ同時期に、坂口恭平さんの「独立国家のつくりかた」という本を読み、その本を読み終わってすぐ坂口さんが渋谷で「熊本復興チャリティライブ」をやるというのを知り、翌晩にはそのライブへ行き、心底感動したという経験がきっかけになっている。

著書の中に、こんな一節があった。

「社会を変える」行為を「芸術」と呼んでいた(p87)

わたしには、この一文がピカーッと光って見えた。

そうだ、たぶん、だから、わたしは、芸術を扱うひと、生み出すひと、支えるひとに畏怖の念を抱き、目を離さずにはいられないんだと、思った。自分が芸術の世界に惹かれて止まない理由を、ズバリ一言で表してくれたような一文だったから。

さらに、熊本復興チャリティライブでは、音楽と参加アーティストたちを愛するひとたいが集まっていて、わたしは彼らの熱気に気圧されるように小さくなって前列でライブを見ていた。

特に大好きなアーティストが出演していたわけではなく、本当に、前日に坂口さんの本を読んでいたという、ただそれだけの理由で、彼を生で見るのは初めてだったし、なんなら坂口恭平という名前も、ライブの3日前くらいにはじめて知ったという、スーパービギナーだった。

ライブは、時折被災した熊本の人々とビデオ通話でつながれ、現地の様子などを聞く時間もあった。

今まで、音楽に心が満たされ、救われ、どん底まで突き落とされたことはあったけれど、それらの影響はすべて、わたしが好きなアーティストからしか受けてこなかった。

「彼らの音楽を聞くと、その日の夜、安心して眠れる」という人たちが、熊本と、ライブ会場にこんなにいるのだという事実に、わたしはひどくショックを受けた。

3日前に知ったアーティストが奏でる音に、こんなチカラがあるなんて。

このひとは本当に「社会を変える」ことを体現しているんだ。

今思えば、彼のカリスマ性とか他に登場したアーティストの著名度を考えると人が沢山集まるのは当たり前なのだけれど、それにしても、わたしにとって「誰かが音楽で救われる」瞬間を目の当たりにしたのは、その時が初めてだった。

自分が救われた経験は、誰にも共有せず、傷が癒されていく様子を心の中で見つめているに過ぎない、かなり個人的な経験なのだけれど、ライブ会場という大きくて広い場所で「救済の一体感」を感じたのは、これが初めてだったのだ。

そんな時、わたしは「SICK! Festival」の記事を思い出した。

演劇も、誰かを救うことはできないのかな……?

演劇だって、広い場所で多くの人を集めてつくるアートだ。ライブ会場で感じた、あの「一体感」と「救われた心地」は、演劇では共有しあえないのかな?

そんなことを考えるようになり、わたしは心身の病を抱える人々が集う「SICK! Festival」に興味を持つようになった。

病をさらけ出し、見つめ、癒す過程に、アートを持ち込む「SICK! Festival」。それはかなりセンシティブで、デリケートな問題だ。でも、正面切って話せない、向き合えないことに対して、アートは、思わぬスイッチになる。

誰かを救うために、演劇は用いられないか、という接点を探したくて、それを実践している場を見てみたい。そんな漠然とした希望と期待から、わたしはこのフェスティバルのことが気になってしょうがなくなった。

もうひとつは、単にわたしがアートや芸術の世界でできることってなんだろう、と延々と考え続けていた点が関係している。

アートとか芸術とかって言葉は、「選ばれし某」しか足を踏み入れてはいけないような気が、する。そう思っていたし、今でもまだ恐る恐るな部分がある。

でも本来、「足を踏み入れてはいけない領域」なんて人徳に反しない限りないわけで、なにか特殊能力がなくても「ちょっと気になるので立ち寄ってみました」レベルのひとが大歓迎を受けることだって、あるわけだ。

もちろん「何もわかってない小童が!」と思われる不安は、拭いきれないし、そう思うひとは絶対に一定数いるけれど、それはなにもアートに限った世界ではなく、必ずいけ好かない顔をするひとはいるわけで、そのひとたちにビビっていたらいつまで経っても、好きな世界へは飛び込めないのだということを、ここ半年くらいで思い知った。

「小童ですが、でも好きで好きで気になってたまらないから、来ちゃいました。いろいろ教えてもらえませんか?」

と言えるところまで、来た。それが、2016年後半の、大きな前進だ。

わたしはアーティストではない。でも、できることなら、ある。

誰が、どんな動きをして「SICK! Festival」ができあがっているのか。なにもアーティストだけが働きかけているわけではないはずだ。ファシリテーター、プロデューサー、ディレクター、キュレーターなどなど、様々な役割があるはず。

その構造を、この眼で見てみたい。どうせなら、演劇の本場・イギリスで。

これが、2つ目の理由。

これらのことを知って、それから、さあどうする? 今はまだ、分からない。でも、日本という国が抱える精神的病理は、イギリスや他の諸国に負けないくらい(負けたいところだけど)根深く、幅広く、増える一方な気がする。

社会を変えたいとは思わない。でも、わたしのとなりのひとが、朝日が差し込むと憂鬱になってしまったり、働きすぎて過呼吸になってしまったり、何もしていないのに歩いていたら突然涙が出てきたり……(すべて実例)そんなとき、わたしはかける言葉を見つけることができなかった。「少し休んだら?」とか「大丈夫?」とか、何を言っても傷つけてしまうんじゃないかと、怯んでしまった。

そんな不毛な時間、無い方がいい。涙の数だけ強くなれるとか言うけど、悲しい涙は少ないほうがいいに決まっている。

わたしごとき、ちっさい人間が、社会を変えられるとは思わない。でも、となりのあなたが泣いてばかりいると、わたしも悲しい。泣くなとは言わない。違う方法で、となりのあなたを救えたら、どんなにいいだろう。そんな思いがぽこぽこと、生まれてきたからこの思いが消える前に、わたしはやっぱりイギリスに行って「SICK! Festival」を見てみたいのです。

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