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「ここではないどこかへ」と願わなくなる日

約一年前、右手には黒い大きなスーツケースを転がし、背中には急いで詰め込んだ荷物でパンパンに膨らんだ赤いバックパックを担ぎ、氷点下近い気温の北の国に降り立った。

その日、現地は雨の予報だったけれど、晴れ女の運が効いたのか、重たい灰色の雲が浮かぶだけで雨は降らなかった。

空港に着いて、電車を乗り継ぎ、前から乗り降りするバス──東京のバスは中央のドアから乗り、前のドアから降りる──に乗ると、大きな荷物を背負ったわたしの風貌が、空席の目立つバスの車内で珍妙に映え、高校生数名がなんどもこちらを振り返ってはこそこそ話す声が聞こえた。

──そんな風景が、まるで昨日のことのよう。

一年なんて、本当にあっという間だ。

ふと、一つの場所で四季を通して過ごしたのは、地元の静岡と東京以外で、ここが初めてだな、と思う。

地縁も友人もツテも、何もない。

気心知れた人々が暮らす街から、遠く離れてしまったら、これからはほとんど会えなくなるかもしれない。

そんな土地へ、なぜ?

──東京から、なるべく遠くへ行きたかった。

そう答えると「都会が嫌になったの?」「何か辛いことがあったの?」と苦笑いされることがある。

そりゃあ7年近く東京にいれば、辛いことなんて腐るほどあったけど、それを上回るくらい楽しいことだってたくさんあったし、なによりわたしは東京が好きだから、逃げるように遠くへ行きたいと思ったわけではない。

「ここではないどこかへ」。

何者かになりたくて、焦って生き急いで、何度もその台詞を口走っていた、1年と、ちょっと前。

それももう、今ではなつかしい。

「ここではないどこかへ」行けば、わたしが真新しくなれると思っていた。

“ここ”にいるわたしは置いてけぼりで、未知なる“どこか”に期待をして。

何かを振り払うように。何かから逃げるように。

遠く知らない土地へ行けば、それだけで生まれ変われたような気になって。

でも本当は、刺激を受けて浮き足立つ心を抑えきれない躁状態になっただけで、放置された“ここ”にいるわたしは、足るを知らずに腐ってゆくばかり。

今のわたしが“どこか”へ行こうと、わたしはわたしのまま。

今“ここ”にいるわたしは、後にも先にも“ここ”にしかいないのに。

腐ってしまう、その前に、“ここ”にいるわたしをすくい出せば、空虚な“どこか”ではなくて、明るい“どこか”へ歩んでいける。

「ここではないどこかへ」と言っている間は、きっとどこへも行けやしない。

“ここ”を飛び出したところで、どこへ向かっているのか見えやしないんだから。

いつも他人や自分に急き立てられて、無い物ねだりを重ねて重ねてひたすら走ってゆけばすぐ、息が切れて目が回る。

でも、わたしがいる今“ここ”を見つめれば、“どこ”に向かえばいいか見えてくる。

焦って「ここではないどこかへ」と求めていたときよりも、ずっと遠くへ、ずっとはるかへ、歩いていける。

その距離感に気づいたから、今では前よりずっと楽に、深く呼吸ができている、と思うよ。

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