生き様が表現になる時代に
いま、感じていること、考えていること、なるべく生のまま残しておきたいので、指先が動くままに書きつける。
4月からリソースをがっつり注ぎ込む予定だった仕事が、コロナウイルスの影響で、なくなった。
ゆえに、その仕事を軸に考えていた向こう半年の計画は、いったん白紙になった。
白紙になったと分かったのは、今日の午後。
なんとなく、そんな気がしていたからダメージは少ない。
「ま、なんとかなるしょ」と強がりでもなんでもなく、思っている。
わたしの仕事が消えたことよりも、文化芸術がこの環境の中でどう立ち向かうのか、文化芸術、ひいては表現することに対してわたしはどういうスタンスを取るのかが問われている気がして、そういう意味での緊張感は、一気に増した。
考えを巡らして、どんなルートを経ても「生き様は表現になる」という答えにたどり着いたのが、2018年の秋。
これまで誰もの憧れとされていた、地位や名誉や金銀財宝が必要な生き方……を選ばずに、ひとは幸せを感じるのだとするならば、ではそれはどういう生き様になるのかは、誰も答えを知らない。
というか、無数に答えがあったとして、それを思い思いに”表現“することが、生きづらさをかかえる誰かの救いになるなら、表現をやめてはいけないと、根拠なく確信している。
「芸術」という言葉をそんなに使いたくなくて、「表現」と言いたいのは、手段はなんでもよいから。
「事実は小説より奇なり」と言うように、暮らしそのものが、選択と生き様の写し絵で、“表現”の基盤だと、信じて疑わない。
「芸術」という熟語自体、本来の意味と、今とらえられるイメージとで、ズレがある気がしているし。
それゆえに、やけに高尚に持ち上げられたりもするから余計な誤解は削ぎ落としたくて、「表現」という平たい言葉に置き換える。
「表現」は、ハレでもあるが、ケでもある。
そこに優先順位はない。絶えるものでもない。
お金は、わるものではない。
副産物。
なのに。
順番が逆になりがちな気がしてならない。
お金に縛られる“表現”もまた、生き様の一つなのかもしれないけれど。
生き様が表現になる時代に、暮らしこそ損なわれるべきでないのに、そのセーフティーネットまで、自分でなんとかしろという時代。
「絶望しない。期待もしない」。
「日々、淡々と生きる」。
分かっちゃいるけど、背水の陣で挑む、むずかしさ。
見返りも余計な期待も手放して、自分の“表現”に潜ることが、これからは最速の生存戦略なのではと、夜更けにnoteを書き散らしながら思う。
だからこそ、わたしは生活を営む「日常」の強度を信じたいし、表現の自由を奪われたくない。
生き様を語っても、せめて笑ってゆるしてくれる人もいる世の中であってほしいけれど。
「そのためには、まず自分が“表現”して見せよ」。
予定が白紙になったのはつまり、そういうことだと、本気で思っている。
「甘えるなかれ、腹を括れ、生き様を見せよ」という、なにがしかのお達しなのだと、思う。
読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。