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変わらないものと変わってゆくもの

 何度も、下川町には帰っているけれど、なぜか今回「久々の下川は、なにか変わった?」という質問を、何度も受けた。

 いままでは、こんなこと、無かった気がする。

 「最近どう?」とか「インスタで〇〇を見たよ」とか、そういう入り口からお互いの近況報告や、最近考えていることを分かち合うのは自然な流れ。

 帰るたびに「下川、なにか変わった?」と聞かれてもおかしくない。

 けれど今回は、その質問が、特に目立っていた気がする。

 町の変化に関する質問の頻度と関連するかどうかは分からないけれど、10日間ほど滞在して感じたのは、おしゃべりをした方々の多くが分岐点にいるということ。

 新しいステージへ行こうかどうしようか迷っていたり、次の一手を試行錯誤していたり。もしくは、最近一歩を踏み出したばかりだったり。

 わたしだって、変わってゆく。

 何歳になっても揺れ動いて、小さなことで落ち込んだり喜んだり、日常を動かすので精一杯で、気づかないだけだ。

 同時に、周りの人たちも、町も、どんどん変わってゆくのだと、思い知らないわけにはいかなかった。

 変わらないことへの安心感など期間限定だし、変わってゆく流れに立ち向かうための幻想に過ぎない。

 それでもなんとなく甘えたくなってしまう。

 でもそもそも、わたしが下川町をすきになったのは、自然も人も、容赦なく変わってゆくからだった。だから飽きなかったし、背筋がしゃんとした。

 「わたしはこう生きるから、あなたはあなたの好きに生きなさい」と、つかずはなれずの場所から目配せする、その厳しさと気遣いが好きだった。

 「変わらないでいてほしい」などと、甘えるのが筋違いで、遠く離れても時々帰っても、優しく厳しい距離感だけは平等に保たれている。

 それが、また帰りたくなる理由にもなる。

 距離感の平等性は、会話にもあらわれる。

 どんなに久々に顔を合わせても、わたしが輪の中に居ようと居まいと、「そういえば、このまえのあれ、どうなった?」と“昨日"の延長の会話に巻き込まれるのは、めずらしくない。

 会話の最中に「この前こんなことがあってね」と補足してくれる人もいれば、なんの説明もなく話が進んでいくこともある。

 でも、それでいい。わたしが"昨日"の中にいなくても関係ないし、わたしにとっては、そこで気遣われなくていい。ここの日常は、ここで暮らす人たちのものだから。

 この先、もっと、わたしが知らない"昨日"が増えて、その期間が延びて、わたしのことを知らない人たちも増えて、わたしが知らない人たちも増えて、知っている人たちもどんどん変わっていく世界で、大切にしたいものと、どう向き合って、大切にしつづけることができるかを、ずっとずっと、考えていた。

 まだ答えは見つからない。

 次、いつ帰れるかも、まだ分からない。

 鹿児島から帰る北海道と、ラトビアから帰る北海道は、ぜんぜん違った。

 「またね」と手を振るとき、なぜか今回の「またね」が、"昨日"と"明日"の延長であったらいいのになと思ったが、その魔法もまた、手を振る姿が見えなくなればとけてしまう。

 ずっとずっと、そこはかとなくせつなくて、でも、いろんな人といろんな話ができて、いろんな方のげんきな顔を見れて、前を向ける数日間だった。

 それから「note、読んでるよ」と、いろんな方が言ってくださったのも、すごくすごく、うれしかったです。

おまけ: 地域との付き合い方で何を優先するかについての、考えごと

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