「わたしもいつか死ぬんだ」と自覚してから息を吸う
だれもが一度は、かんがえたことがあるだろう。
親戚のお葬式で。
電車を待っているホームで。
疲れてソファに座り込んだ、その上で。
「わたしもいつか死ぬ」。
生きているひとは、みんなみんな、いつか死ぬ。
わたしも、これを読んでいるあなたも、みんな。
「死ぬ」という言葉が持つ強いひかりは、今はどうにも縁起が悪いものだったり、不吉なもの、隠しておくべきもの、なんならメンヘラ発言だと吊るし上げられたりもして、なかなか扱いがむずかしい。
産まれてきたら、みんな死にむかっているはずなのに、なぜだか自分には関係のない遠くのものになる。
いつだって生死を感じていなければ、とは思わない。
でもときおり、ふと、「あ、わたしもいつか死ぬんだ」と思う瞬間がある。
先日、羽田空港へ向かう電車の中で、春を待ちぼうける東京の、しらんだ空が流れてゆくのを見ながら、「わたしもいつか死ぬ」となぜか突然自覚して、ドッと冷や汗が出てきた。
あれ。
いつか死ぬのか。
じゃあ、
いま見ている景色は?
空港へ向かう、この時間は?
忘れてしまうのか?
忘れる、という行為すら、しなくなるのか。
こうやって「いつか死ぬ」と思っている意識も、いつか、消えてしまうのか?
消えてしまうとしたら、どこへ?
わたしは、どこへ?
だれも知らない。
これだけ文明が発達しても、死んだらどうなるかは、だれも知らない。
知っているのは、死んだら血の巡りも何もかもが停止して、肉は朽ちて、骨は粉々になり、からだは消えてしまうということだけ。
かんがえていることや、かんじていること。
それらがどうなるかは、だれも知らない。
肉体構造の、なんと単純明快なことでしょう。
精神世界の、なんとはかないことでしょう。
いまこうして書いているnoteだって、意味があるかと問われたら、特に無いとしか言えない。
「いつか死ぬ」という感覚は、なんの前触れもなく襲ってくる、発作のようなものだ。
いまふれているもの、見ているもの、文字通り死ぬほど考えていること、些細な悩み、友人との他愛のない時間、ひとり読みふける本のいろいろ、映画で得た感動──そういうものぜんぶ、死んだら「無」なのか。
「いつか死ぬ」という事実は、何気ない日常を突如として恐怖と諦観で覆う。
しばらく呆然としたあと、深呼吸して、目を少し長く閉じ、ゆっくり目を開けると、「いつか死ぬ」という揺らがない事実を前に「よし」と思う。
「いつか」がいつなのか、誰もわからないのだから、来るべき「いつか」まで、ただ生きていようではないか──そう思う。
同時に、「開き直る」という人間の都合の良さが、プレインストールされていて本当に良かったな、と安堵する。
「見たくないものは見ない」都合の良さで遠ざけられた「死」は、ある日突然容赦なく、分厚い目隠しと日常の壁を突き破って喉元に突きつけられる。
でもそれは、ほんとうは、生まれた時からあったのだ。
あまりにも近すぎて、視界に入っていなかっただけで。
「死」におののいて、拒否しようものなら実は「生」をも遠ざけているのかもしれない。
「しようがない、共に生きよう」と「死」を押し退けずに開き直ってみれば、「生」もが強く研ぎ澄まされる。
………という、ここまで頭の中で巡った時間、およそ1分。
羽田空港へ向かう電車は、いよいよトンネルへ入ろうとしているところだ。
ただ、生きていよう。
なにも偉大なことなんて、しなくていい。
すべては、死ぬまでの暇つぶし。
大往生するまでの、自由演技。
わたしが健康体だから言えることなのかもしれないけれど。
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