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自分の老いは自分で決めたい

 「おとなになる」ことの意味を、かんがえる。

 歳を重ねて思うのは、年齢関係なく、おとなと呼ばれる人々は意外と、みな必死だし、時にいいかげんだし、泥臭いということ。

 身体だけは、野生の秒針を忘れていない。年々、着実にしわが増え、内臓機能はおとろえ、肉はどろん、とたれてくる。

 身体は、老いると、どんどん下へ下へとしずんでいく。まるで土に近づくように。そのまま埋もれて還る日までの、準備のように。

 心も身体も、いくつになっても最新状態。下へ下へととけゆく身体にあらがって、最新状態から改変を試みる。

 無駄な抵抗をあきらめ、身体の変化に身を任せてみたはいいものの、しっくりこない。

 そしてだんだん、年相応の振る舞いなんてものは、えてして「都市伝説では?」という気分になってくる。

 見た目や身体が、いわゆる、おばあちゃんになっても、きっと「70代ってこんなにいろいろ考えることあるんだ」とか「80代なのにまだ落ち着きがない」とか、思っているんじゃないかってこと。

 そして、年相応なんて本当は無いのだという事実にうろたえながら,下へ下へと還っていく肉体の道筋を、慌てず焦らず伴走できるかということが「おとなになる」ことなのかもしれない。

 否、きっと「おとな」という完了形は、存在しないのだ。子ども」という完了形が存在しないように。

 だから「おとなになる」状態が、満了をむかえることはない。ただただ、身体が老いる。経験が蓄積する。それだけ。

 かつて取材した、とある演出家の方がおっしゃっていた。

 「お年寄りは,実はお年寄りを演じているだけなのかもしれないと思うことがあるんです」と。

 身体に蓄積されたさまざまな情報と経年変化に適応しようと、“世間から求められるおばあちゃん像”に、自ら、はまりにいっているのでは、と。

 誰からも強制されていないのに勝手に求められていると勘違いして、それらしく振る舞うことは、自分ではなく顔の見えない他者に従属して、老いを依存させてしまう。勝手に、完了形にしてしまう。

 そんなの余計なお世話である。自分で自分の老いを構築したい。勝手に終わらせないでくれ。

 いまのわたしと同世代や、それ以上の世代の“おとな”たちは、だいたいが必死で、スマートにそつなくこなしたと思えば、「そんなところで?」と思うところで、ずっこけたりする。

 何歳になっても、あたふたしたり、惑わされたり、踏んだり蹴ったり。死ぬまで老いつづけ、積み重ねつづける。たとえば80歳になっても「80歳って、こんなに子どもだったんだ」と思っている、気がする。

 だからといって、無邪気さを盾に非常識が許されるとは、思っていない。

 ただ自分の老いゆく道筋を、なんとなく想像したときに、これは何歳になっても“おとな”は完成しないゾと直感した──その気づきを忘れないければ、少なくとも易々とおごりたかぶっている場合ではないと思ったのでした。

 自分より、うんと若い人たちと接するようになってきたから、こういうこと、考えるのかもしれない。これもまた、わたしなりの老いの構築。

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