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世界平和はおとずれない

 「こうであってほしい」と願う世界は、ある。

 けれど、わたしが「こうであってほしい世界」は、誰かにとって「こうであってほしくない世界」かもしれない。

 たらればで語る未来に対して「願うだけじゃ叶わないよ」と、はっぱをかける自分と他人に、鼓舞されたり、惑わされたり。

 相手が思いどおりにいかなかったり、矛盾する行動をとったりすると、腹が立つこともある。

 白黒つけたい他人と、白黒つけられない他人。

 彼らを通して見えるのは、白黒つけたい自分と、白黒つけられない自分。

 どっちも本当。

 「怒り」は、理解と拒絶のあいのこだ。分かり合えなくてもいい。せめて耳だけでも傾けたい。

 だって、おさえられない「怒り」を因数分解すると、「怒り」という一言でくくられて見えなくなっていた不満や不安、悲しさがほぐれて現れるから。

 でも、そのほぐれた一つずつを手にとって、誰も彼もの声をすくいとろうとすると、動けなくなる。

 誰も彼もに配慮しようとすると、何も言えなくなる。

 「人間には愛がある。だから世界平和は叶わない」と言ったのは、ある有名な方だったかと記憶しているけれど、はて。

 愛と正義の名の下の、勧善懲悪の采配は、時に眠っていた悪を呼び醒ます。報復は報復を生むし、断絶は断絶を連続させる。そんなこと、誰だって知っている。だから、正義にも悪にも耳をすます。

 すると、悪だと排除されていた雑音が、誰かの叫びだと分かる。でも、ぜんぶの叫びを受け止められない。正義も悪も、紙一重。

 ぼかさず、すべてを受け止めつづけるほど、海みたいなうつわがあるわけでもない。でも、いろんなことを誤魔化すほど、自分と他者への気持ちの解像度が下がっていくから、“聞いているフリ”は、したくない。

 自分の意見は、ある。でも、誰かの意見を真っ向否定して、押し付ける人にもなりたくない。黒か白かを強要もしたくない。もちろん、はっきりさせなければならないときもあるけれど。

 この葛藤は、わたしだけではなく、いろんなひとが引き受けているに違いない。白と言う人、黒と言う人、そのはざまで揺れ動く人。全員が、どの立場にもなり得る。全員が白だと言う日は来ない。全員が黒だと言う日も、きっと来ない。全員が、白も黒も選べないと言う状況が生まれたとして、それが“平和”なのか──とも思えない。だから世界平和は、わたしが死ぬまで、おとずれない。死んでも、おとずれない。「人間だもの」で丸くおさまるなら、そもそも言葉なんて、生まれなかった。

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