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「旅」について

今日はスナバのメンバーさん企画のオンライン飲みがあり、テーマは「旅」だったのですけれど、気がついたらみんなで2時間くらい喋っていたくらい話題は尽きず。それぞれがもつ「旅」の概念や定義は違えど、誰でも何らかゆかりのある「旅」は、みんなにとってどんな意味や役割を担っているのだろう。

旅は必需品 

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(写真はフランスのパリ 2019.3)

まず、「旅」が嗜好品的なものなのか、必需品的なものであるのか、ということでいえば、私は間違いなく後者と捉える。あったらいいな、じゃなくて、なかったら困る、というもの。どこかの南国のプライベートビーチのパラソルの下でマイタイなどを飲むというのなら、それは相応の資本を必要とするし、嗜好品的な側面を含むのかもしれないけれど、必需品的な側面は排除しない。コアにあるのは、やっぱり、「誰しも『旅』は必要だ」ってことだ。


思えば、ここしばらく、「旅」という旅をしていない。 

理由は色々あるけれど、今年は新型コロナウイルスの感染拡大という稀にみる事態で、海外はもちろんいけないけれど、国内でも、さらには自分の生活圏内から出る、という行為にすら、なんとなく後ろめたさを感じたりする。

状況が状況なだけに、移動ができたとしてもどこに行くにもこの後ろめたさがつきまとう中で、疲弊したりじわじわとストレスを感じたり、というのが、着々と自分の「旅」欲求のボルテージをMAXまで近づけていく。

きっかけをくれた「旅」

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ところで、自分がここまで「旅」にこだわるのは、自分なりの原体験があるからだと思う。

 

私が今でもビビッドに思い出す人生最初の「旅」は、高校1年時にアメリカ・カリフォルニア州のある都市で1ヶ月のホームステイをした時だった。めちゃくちゃ優しく、温かいホストファミリーと出会って、現地の大学の付属施設に通いながら、拙い英語を駆使して、泣いたり笑ったりたくさんの経験をした。

(今よりももっと)世間知らずだった私が、初めて異なる大陸の異なる国に降り立ち、生活してみて、感じたことというのは、驚きよりも、"安堵"という表現の方がしっくりくる。

「言語も違うし、文化も違うけど、ここには日本と同じように家族があり、仕事があって、学校があって、マクドナルドがあって・・人々の営みがあるんだ」

という気づき。日本の外にも世界はあって、しかもまた違う価値観や暮らしがあって、、ということが紹介され、それは今も私の思考の土台になっている。要はその時に視野の広さや多様性に対する見方がバーン!と広がったのだ。

「ここではないどこかに行きたい」のではなく、「ここではないどこかもあるというのを知ること」。それが、想像力とか、共感とかを増やしたり、自分がここで自分らしくあるということを支えてくれているという実感。  

「今ここ」からの逃避なのではなく、旅をすることで、「今ここ」に舞い戻ってこれる。また次に歩める。自分にとって「旅」がなんであるか、を問う時、そんなことを思います。


これからの「旅」

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(写真はポルトガルのポルト 2019.4)

今年の11月、誕生日はメキシコで死者の祭に参加したい!と、力強く宣言していた私ですが、流石に今年は諦めるに至りました。(そもそもお祭り自体を実施するのかも謎)

おそらく今年は、海外旅行にいけていない人も多いと思う。「旅」だけでなく、高校・大学の学生なども、留学やホームステイなどの初の海外渡航を断念した人たちもいるかもしれない。海外を例に出したけど、国内だって似たような状況はある。

それが良いとか、悪いとかじゃなくて、そういう状況があるということ、そしてそれがどういう影響を(経済的な影響だけじゃなくて、環境的にとか、心理的にとか、文化的にとか)生むのか、長期的に見えてくることもあるだろう。

今では、ネットやSNSが発達して、離れた地域に住む人たちでもタイムリーに繋がることなんて、日常茶飯事だ。でも、メディアは補助・拡張ツールとしては有能だけれど、さっきのようなビビッドな経験はまだまだ得難い。私の中では、今も、実際に移動した先で誰かと出会う、のような身体性を伴う「旅」というものがもつ可能性があると信じたい。

今こそ、「旅」の価値を再考したい。他の人は「旅」に何を見出しているのか?かとか、自分が欲する「旅」要素をいかに生活に実装して行くか、とか。


そんなことをしていると、「旅」は案外と身近なところでも体験できたりもするかもしれない。たくさんの可能性を、視野を狭めずに、見つけて、考えて、行動していきたい。

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(写真はスウェーデンのマルメの友人宅 2019.4)

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