先生と私

先生は、私には会いたくない、と言った。
真夏の昼下がり、お使い物を病室に直接お届けしたい、と連絡を入れたら、先生の秘書に渡せと言う。
大した手間ではないですよ、病院も近いですし。
そう言った私に、先生はかすれ声ながらも、きっぱりとした口調で、言ったのだ。
あんたは身内じゃないから。痩せてみっともない姿を見せられないよ。
じゃあ、お元気になられたら、お会いしてくださいね。
そう言った私も、すでに悟っていた。
もう、先生には二度と、会えないのだろうと。

私の役割は、若くて健康、体力があって、ちょっと鈍いけど悪気はない、そんなところだった。
上司と一緒に先生と会食すると、ウナギだのステーキだの、脂っこいメニューをリクエストする割には、たくさんは入らない先生は、私の皿にほとんど半分くらいのせた。
無理してでも食べた。
先生が嬉しそうだったから。そして先生は、食べる私を見ながら、ちょっとため息をついた。
昔は、ぺろっと入ったんだよ。
今ならわかる。先生は死が怖かったのだ。だから、死から遠く見える若い人がたくさん食べる様子を眺めると、少しだけホッとしたのだろう。当時はっきりと言葉にできたわけではないが。年を取った今ならわかる。
だから、ウナギもステーキもフレンチも、いつでも1・5人前食べた。

ずっと年寄りの姿だと思ってるだろ。これでも昔はきれいだったんだよ。
先生の若い頃の写真は、どこかで目にしたことがあった。異国で撮影されたセピア色の写真には、きれいな顔立ちの、まだ少年の面影が残る先生が笑っていた。
先生、おモテになったんですよね。
そう言うと、はじめはちょっと得意そうな顔をしていた先生が、ふっと表情を曇らせたかと思うと、やがていきなり怒り出した。
純潔教育っていうのは、今ではどこにいったんだろうねえ、それで悩んで死のうとした子もいたのにねえ、と先生は腹立たしそうにつぶやいた。
先生が死のうとしたことがあると知ったのは、少し後のことだった。

先生の推しは、樋口一葉だった。
初恋といってもいいだろう。
一度だけ、上司抜きで、二人で食事に行った。
あんたには世話になったから、お礼がしたいんだ。
先生はそう言って、古いホテルの地下にあるフレンチビストロで、ご馳走してくれた。日本の白いクロスがかかっている堅苦しいフレンチは、本当は好きじゃない、片目をつぶって先生は、そう言っていたずらっ子のような表情で笑った。上司が選ぶ銀座のフレンチは、いつもしわ一つない、真っ白なクロスがテーブルにかかっていた。
ここのオニオングラタンスープがうまいんだよ。
先生は、やっぱり少ししか食べないくせに、オニオングラタンスープだけは二人前頼んだ。フレンチステーキ、フレンチフライにミモザサラダ。ほとんど私の皿にのせながら、熱いオニオングラタンスープを、熱い、熱いと言いながら嬉しそうに口に運んでいた先生が、思い切ったように私に言った。
あんたに一つ、聞きたいことがあるんだ。
何でしょう?
樋口一葉は、師をあんなに慕っていたのに、ある時から途端に冷たくなる。日記を読むとわかるんだよ。今日は珍しい人が来たって。あれだけ慕っていたのにだよ。でも、なんで冷たくなったのかがわからない。あんた、どうしてだと思う?
う~ん、それは先生……誰か他にいい人、できたんじゃないでしょうかね、日記には書かなくても。
私はオニオングラタンスープと格闘しながら、何の気なしに口にした。
えええええ!
先生は、目をまんまるに見開いて、がっくりとうなだれた。
それは、思いつかなかったよ……。
続けてしょんぼりしたままで言った。
実際に会った人がね、一葉は猪の首だったって書いてるんだよ……。
先生、昔の人は着物姿でなで肩だと、みんな猪の首に見えたんじゃないですかね。
そう返したのだが、先生はしばらくしょんぼりしていた。スプーンを持ったまま、考え込んだ先生の目の前で、オニオングラタンスープが冷めていく。
いいんだ、ほんとはあんまり熱いものを食べちゃいけないから。
先生はそう言って、また少しずつスープを口に運んだ。
思えばこの時から、先生はもう具合が悪かったのだ。
それ私と先生との、最後の晩餐だった。

もう、先生とは会えないだけではなく、電話でも話せなくなっていた。
そんなある夜、残業していたら、いきなり職場の電話が鳴った。なぜだか直感で、先生からだと思った。
もしもし。あんた、まだいたのかい。
ええ、先生、まだいましたよ。
かすれた声に、ぜいぜいとした息遣い。でも聞こえないふりをして、いつも通りに返事をする。声だけ、声だけは普段通りに。
仕事の感想はすぐに伝えないとだめじゃないか。
ぜいぜい声の先生に怒られる。
すみません、お体の具合がわからないので、お電話していいものかどうか、秘書の方に伺ってからと思っていました。
先生に、怒る元気があることが嬉しくて、声がふるえそうになる。先生は、ちょっとだけ優しい声で、続けた。
早く帰らないとだめだよ。
はい、先生。でも、ご用があれば、何なりと。
あのねえ、特に用はないんだけどねえ。
しばらく、ぜいぜいとした息遣いが響く。不思議なことに、残業が珍しくない職場にいたのは、なぜかその時、私一人きりだった。先生が息を整えるまで、一呼吸、二呼吸、私も息を整える。
あのねえ、ありがとね。
先生……私は涙声になる。
もっと怒ってください。私は失敗ばかりでした。そんなにうまくできたわけじゃない。自分でもわかってる。先生、怒ってばっかりだったじゃないですか。
先生、そんなこと言わないでください。
若かった私は、そんな言葉しか返せなかった。本当は私のほうこそ言わなければいけなかった言葉だったのに。
しばらく、1分、2分、3分、ぜいぜいとした息遣いだけが聞こえてきた。
じゃあね。
そう言って先生は電話を切った。
私は一人で泣いた。

本当は、あの日、真夏の病室に、こっそりお使い物を直接持って行った。
先生の病室の前まで行って、でも、中に入る気も勇気もなくて、開け放たれたドアから、白いカーテンの揺れるさまをじっとみていた。
先生の姿は見えなかった。
カーテンがひらりひらりといくら揺れても、ベットの足が少し見えるだけだった。
声もしなかった。
動く気配もなかった。
先生は寝ていたのかもしれない。
そのままナースセンターに荷物を預けて、病院を出た。
空が突き抜けるように青く、セミの声はあたりに降り注ぐようで、ただひたすらに暑かった。









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