禅的に認知を捉える
井上貫道老師坐禅会に3日間大分に行ってまいりました。
井上貫道老師は、大乗起信論の読書会を一緒にしている高山一定さんの師匠であり、悟りを体現されている方。
そんな師匠の師匠が同じ九州にみえるというので、行ってまいりました。
ちょっとお茶目な素敵な方で、すっかりファンになってしまいました。
1.老子講話より
私たちは、五官を使って、五感を感じています。
五官とは、臓器的には、目、耳、鼻、舌、皮膚感覚を言います。
不思議なことに、五体満足を頂ければ
生まれながらに私たちは、その感覚を感じる事ができるのです。
よく考えたら、ありがたい話です。
しかし、それが言葉になった途端に、まるで違うものになるのです。
手を叩くという行為が、人によっては
パン!と聞こえる人もいれば、
大きい、小さい、
好き、嫌い、、、無限に形を変えていくのです。
つまり、感覚から意識が芽生え、言語表現になったり、思想になると、あいつは違うとか、好き嫌い、宗教間の争い、分断が生まれてくるのです。
つまりは、正しくみるという悟りは
生まれながらに、皆持っているのに
成長するに従って、環境や価値基準によって違うものになっていきます。
坐禅というのは、ただ実物というあるという行為そのもの。
2.坐禅生活3日間
今回は、初日が15時から21時、二日目は9時から21時、三日目は9時から16時までのスケジュールだった。
坐禅生活、1日目の午後になると、開眼していたら、壁に花や人の模様が浮き出てきてそれがゆっくりと、盆提灯のように色を変えるのが見えてきた。
基本的にマインドフルネスや私がする瞑想は閉眼しているので、開眼していて、そのような変性意識状態になったことを喜んでいる感じだ。
夜9時に終わると、頭はとてもスッキリしていて、今日の素晴らしさを早速師匠に報告する。
その幻影を求めて、2日目に挑むのだけれども、朝の9時から夜の9時、40分クールで繰り返される座禅に次第に足の痛みと憤りを覚え怠惰になり、眠たさと足の痛さと戦う時間になってきてしまった。
一体何のために座るのか?
途中、老師の講話を挟む。
坐禅鍼という坐禅のコツのようなはなしだ。
思わず知らず、いろいろなことが現れるさまは、自分から生じて形になっているんだよ。
本当は汚れていない、事実しかない。
自分と他がわかれていると認識するから、生まれてくるんだよ。
魚は水の中から飛び出して、鳥になろうとして空に行ったら死んでしまうでしょ?的な話しだったと思う。
ひとつわかったのは、坐禅の有り様というのは、マインドフルネスのように目的があってするものではない。
ただあるということ、何もしない言うことはどういうことかを感じる時間なのだ。
しっかりと開眼し、曇りなき眼で現実を見る。
そこに生まれる感情や考えとは存在しない。
ただただ自分の中を見つめる作業。
そして人と比べるから悩みが生じてくるのだ。
老師と二人ではなす機会を得た。
儲けたいという欲に対し
「生きていけばいいんじゃない?」とすぱーんと切られる。
老師のように、徳の高いお方の1日の給料を聞いて唖然とする。
何を稼ぐのかを言えば、それは徳である。
完全の禅の世界を生きてらっしゃる、体現するとはこのことか!
老師をみるとまるで川辺に佇む岩のように、微動だもせず
きれいな三角形を描き座られている。
自然と一体化されている。
足が痛いというはなしに、形をきちんと作るより、いま大切なものは何か?
どのような在りかたでいるのかというところが大事と言われる。
坐禅とはまさに日々の過ごし方そのものなのである。
ついつい足の痛みをないがしろにしつつ
体裁ばかりを整え、周りと比較している自分や責任というものに気づくのだ。
そう、いつまでもないものばかりに目を向けていまここに意識がない。
まだまだ坐禅道は、入り口に立ったばかり。
3日じゃまだまだわからない。
そんなことを覚え書き代わりに。
まだ全くうまく説明できないので
本を読みつつ、実際の坐禅会を体験してほしい。
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