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なぜ投稿サイトの小説のタイトルは長文化するのかという話

小説家になろうやカクヨムなどインターネット上の小説投稿サイトが盛り上がるのと並行して、小説のタイトルが長くなってきたと思う。

旧来の小説であれば、例えば夏目漱石「坊ちゃん」、森鴎外「舞姫」など短文のタイトルが主流だった。もしかしたら「吾輩は猫である」は主述のある題の走りかもしれないが、これは冒頭一文を題にするパターンで、本論で語りたいものとはいささか異なる。

最近の長文タイトルは、つまり、小説の内容の要約あるいは惹句になっている。

例えば、「舞姫」を今風の題にすると「ドイツ留学中に美少女と恋に落ちたが俺は日本に帰らなければならない」のようになるだろうか。タイトルは長文化するものの、そのままでは呼びにくいので、結局、ヒット作は略称で呼ばれたりもしている。じゃあ、どうして長文化するのか。

いろいろ考えてみたけど、「レコードやCDのジャケ買い」になぞらえるのが良さそうだ。

レコードやCDを購入するとき、音楽を視聴せずに包装しているディスクジャケットの写真やイラストを見てピンときたものを購入することを「ジャケ買い」と呼ぶ。

冷静に考えると、聴覚商品を視覚で選ぶことに不思議さもあるのだが、ジャケットに描かれた世界観が音楽に厚みをもたらして、気に入ったレコードやCDであれば、ジャケットを壁に立てかけて眺めながら音楽を聴くようなこともあるだろう。

書籍に戻ると、やはり「ジャケ買い」のようなものは行われる。書店に平積みにされた本の表紙や体裁を見て、イラストや写真に惹かれた本を手に取る。それが書店で本と出合う醍醐味のひとつであるし、また編集者や書店員の側としても作品と読者を出合わせる工夫として体裁やポップや配置など見せ方に工夫を凝らすことが仕事の力点のひとつであるだろう。

さて、一般販売されるレコード、CD、書籍、いずれも共通することとして
①現物を手に取る機会がある。
②ひとりではなく複数人で体裁含めて制作する。
という点をここでは挙げたい。

小説投稿サイトの場合は、上記の①②に関して言えば、
①ディスクや冊子といった物質ではなく、文字情報そのものにアクセスしてもらう必要がある。
②執筆者ひとりが書き上げたものをそのまま公開できる。
というところが特徴だと考える。

読者として小説投稿サイトを開くと、新着表示やランキング表示、タグ情報など、さまざまな見せ方がなされているが、基本的にはどれも文字が主体だ。このなかで視覚優位に立つのは易しいことではない。とはいえ、自分自身で絵を描ける、知人に良い描き手がいるというケースを除けば、表紙や挿絵のイラストを用意することも容易ではない。

(この点、「note」はイラストや写真の投稿者と文章の投稿者を上手につなぐ仕組みができていると思う。)

文章の書き手が、自身の文章力でもって読者を獲得しようと考えると、投稿サイトにずらりと並ぶタイトルのなかで、自分の作品に目をとめてもらう文章を書くしかない。つまり、タイトルそのものが広告文だという考え方が、他の媒体に比べて強く表れる。

ジャケ買い、あるいは試食に例えてもいいかもしれない。タイトルの段階で「この小説はおもしろそうだぞ」と思ってもらえるものを書かなければ、読者の目はタイトル一覧の上を滑っていってしまう。

「誰が、どこで、何をする話」なのかをわかりやすくタイトルで示そう、そういった動機が投稿サイトのプラットフォームから生まれたのだと思う。便箋に手書きで書くのか、インターネット掲示板にキーボードから打ち込むのか、スマートフォンからSNSに投稿するのか、SNSでもUIはそれぞれで使い方も変わってくる。まとめ記事のようなものを書こうとすると「いかがでしたか?」で締めたくなってくる。目次や小見出しをつける機能があれば、目次や小見出しをつけるなりの文章になる。人間は媒体や環境の影響を自分で思っている以上に受けていると思う。


【追記1】この他にもいろいろと、例えば、長文タイトルだと検索にひっかりやすいとか、バッドエンドかハッピーエンドかを示しておくとかあると思うのですが、今回は絞り込んだかたちで書いてみました。

【追記2】投稿サイト発の小説を書籍化するにあたって、タイトルが短くなるパターン、長くなるパターン、略称を強調するパターンなどもあると思います。どういった層にどう売り込んでいくのかはケースバイケースであり、必ずしもということではありません。

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