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言葉を紡ぐときも、受け取るときも独りきり

トークイベントとか、セミナーとか、勉強会とか、講座とか。
規模やテーマ、そこで何をするかを問わず、学びを得ることが好きだ。
新しい知識を得たり、体験することはもちろん、そこで出会った何かが触媒となって想像が広がったり、考えが深まったり、記憶が呼び起こされたりする、脳みそがぐるぐるする感覚が好きである。

言葉の企画は課題に取り組んでいる時も、講義の間もパチパチと弾けるものを常に感じる。すべてをすくって保存しておけないのが惜しいくらいに。

言葉を贈るには人への興味が必要

正直に告白すると、私は他人への関心が薄い。他人が自分をどう思うかにも無頓着だ。嫌われても気にしないし、よく見られたいとも思わない。
こういう性格は生きやすくはあったけれど、圧倒的に競争力に欠ける人になる。自分を客観的に見る目を持てないと、自分自身もアウトプットも磨かれない。
他人を意識しないと独りよがりなものを生み出し続けることになる。

だからちょっと変わってみようかと思って、ここ数年行動を変えてみた。そうしたら刺激が強すぎたのか、表現、具体的には書くことについてスランプに陥った。
書くことを本業とした時期はないが、物心つく頃から言葉を紡ぐことは食べるとか眠るとかと同じ次元で私の日々にあった。
それがここ3年くらい、ずっとスランプだった。アウトプットはもちろんインプットも激減した。

ようやく険しい谷の時期を抜ける兆しがあり、ちょうど運命的に見つけた言葉の企画に参加した。

課題に取り組む中で、他者へ関心を持つこと、伝わるように伝えることの下手さを実感する。圧倒的な経験不足。
まだ消化しきれていないものがあるが、独りだったら逃げていたことに「課題と振り返り」という形で向き合うことで、少しずつだが自分の変化も感じている。
最初からうまくなくていい、うまくなるように愚直に練習する大切さも教えられた。

それでも孤独が私を作る

今、ほそぼそとエッセイの連載をしていて、編集者の人と日々やり取りをしている。
その人と初めて会ったときに、
「むらかみさんは孤独な人ですね」
と言われた。
もちろん悪口ではなく(たぶんそのはず)、私も反射的にうなずいていた。

私の思考、紡いできた言葉は孤独という土壌がなければ生まれなかった。自分とひたすら向き合っていたから作り上げられた土台がある。そこが私の価値だとも思っている。
でも誰かに届くにはもう少し頑張らなくてはいけない。

伝わらないなら、それでいいんじゃない?

そう思ってしまう自分がちょくちょく顔を出すけど、私はやっぱりもっと伝えたいなと思う。
原稿を書き終わるたびに不安になるし、フィードバックも怖い。公開されてからも、これでよかったのかと考えてしまう。
言葉の企画でもそうだが、自己満足で終わっていれば感じなくて済む不快感だ。

正直もういっぱいいっぱいだなと思う瞬間もあるのだが、結局書かないという選択肢を選べない自分がいる。

他者を意識しても、やっぱり言葉を紡ぐ作業は孤独だと思う。
たくさんの人に届く言葉も、生み出す自分は孤独だ。自分と向き合うことでしか言葉は生まれない。

自分を助けてくれるのは過去に紡いだ言葉

なんのために書くのだろうと考え込んでしまったり、もっと大きな次元で、自分はなんのために生きているんだろう?なんて考えてしまうときに限って、昔自分が書いた言葉が私を救ってくれる。

数日前に知人から、私が昔書いたインタビュー記事をたまたま見つけたというメッセージが届いた。
過去に産み落とした言葉がこうやって巡り巡っていつか誰かに届く。
言葉というものを自分が信じていることを思い出させてくれる。

2016年にほぼ日の塾に参加したとき、自分の好きな物についてエッセイを書いた
久しぶりにアクセスしたらまだ残っていて、自分の文章なのに読み返して泣いてしまった。
自分の原点はこれだし、迷っても遠ざかってもいつか戻ってくるのだと思う。

そして、このエッセイの感想としてもらった4件のメッセージを数年ぶりに読み返してまた泣いてしまった。
たった1人でもいい。その誰かに届けるために書き続けたい。そしてその1人を増やすために、届くものを書かなくてはいけないのだと改めて思った。

私の言葉が100万人に届いたとしても、受け取る一人ひとりは顔のある人間だ。孤独に紡ぎ出した言葉が、誰かの孤独に寄り添うかもしれない。
伝わらず苦しむことがあっても、書き続ける限り、言葉の力を信じられる。

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