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キャッチボールをしてみようと思った

5月18日にはじまった、言葉の企画に1期生として参加している。
このnoteは1回目終了後の課題。講義のレポートである。
書くことは好きだが、私は引き算が苦手だ。
的を絞ってわかりやすく、というのが難しい。
講義でも出た話だが、

「伝わらないことが不安で保険をかけすぎて情報過多になる」

これをよくやってしまう。
この企画に参加した理由の1つは「苦手なことをやる」なので、これも成長痛なのだ。
このレポートの目的は、主催の阿部さんや同期に私という人を知ってもらうこと。そして今後この企画は2期、3期と続いていくはずだから、「次は自分も」と思ってくれる人が現れたら嬉しい。

おとなになると、苦手なことをしなくてもよくなる

仕事は楽しいことばかりじゃないけれど、年々「苦手なこと」「やりたくないこと」は少なくなっていく。
だから、自分に負荷をかけようと思って『言葉の企画』に参加した。
年をとるほど、苦手なことが遠目に見えたとき、別のルートを探すのが上手になる。
できるなら苦手なことより得意なことだけをやりたい。
でも、苦手なことを避けると周辺にある「楽しそうなこと」も触れる機会がなくなってしまう。チャレンジしたら克服できるかもしれないし、苦手なままでも、それまでの自分よりは変われるはずだ。

結果として、言葉の企画は想像以上にしんどかった。
開講前に2つの課題が出た。

・1枚のスライドで自己紹介を作る
・1回目の講義内でできる、一生忘れなられない企画を立てる

苦手なことは、自分のコンプレックスを刺激する。
私は本当に「伝えたい」「わかって欲しい」と思っているだろうか。

伝わっているかは、大切ではなかった

ずっと書くという行為が好きである。もう思い出せないくらい途方もない分量を33年の人生の中で書いてきた。
その90%ぐらいは「伝わらなくていい」と思っていた文章だ。
「伝わらない」言葉は、私の外側の世界にとって価値はないけれど、自分にとっては宝物。そのまま眠らせてもいいと思っていた。

でも、「伝えたい」と思うことが増えていった。
伝えたい、わかって欲しいと自分が絞り出した言葉。その内容よりも、それを誰かに受け取って欲しいと思った私の気持ち自体が、自分にとって大きな意味を含んでいるのではないか。

私はありのままの自分から出た言葉を、編集無しで受け取ってもらいたいという欲求が根っこにあるのだ。

伝えたい言葉は伝わる言葉

人から聞いたのか、本で読んだのか忘れたけれど、こんな話を聞いたことがある。

経済的に成功し、家族にも恵まれたエリートビジネスマン。彼の趣味は小説を書くこと。でも作家になろうとは思わない。
彼は物語を書き終えると、そのそばから破って捨ててしまう。物語を書くことは彼にとって自分自身の浄化であり、読まれること、読者の反応は求めていないのだ。

折に触れてこの話を思い出す。
私も彼と一緒なのかもしれない。「読者」を想定した文章は、自分の言葉ではない。言葉の純度も熱量も下がってしまう。そんな風に、言葉をいじることに嫌悪感さえ感じていた気がする。

伝わらなくていいと思っているなら、そのままでもよかった。
でも今の私は、伝わった喜びも、伝わらなかった苦しさも知っている。

自分の中ですらまとまっていない言葉を投げつけて、「私が言いたいことをちゃんと受け止めてよ」というのは相手を壁としか見ていない。
壁は跳ね返すだけで何も答えてはくれない。
これからも、伝えたいから書くなら、相手が受け止められるように工夫しなくちゃけない。その方法を学ばなくてはいけない。
でもすぐに忘れてしまうから、この企画に参加する半年間で自分を矯正してみようと思った。
熱量は伝染するなら、思いは伝わるなら。相手が冷めている、わかってくれない、そう感じるのは私のせいだ。

キャッチしたいと思うようなボールを投げよう

今日会社から出る時、別のフロアのスピーカーから音楽が流れっぱなしになっていた。
私の会社にはAIアシスタントが何個もある。この音楽を鳴らしているのはどの子かわからない。
「アレクサ、スピーカー切って」
反応なし。
「ねえGoogle、スピーカー切って」
音楽は止まらなかったけど、Google Homeが光った。
改めて、顔を近づけて、
「ねえGoogle、スピーカー切って」
音楽は止まらない。考えていますというように4色のLEDが光る。
「ねえGoogle、音楽止めて」
音楽は消えた。
届けたい相手に、届く言葉をかける。

締め切りギリギリになってもまだレポートを書き終えていない私に、自分で決めたんだからがんばれよと言っているようだった。

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