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第八話 『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』

 かつての愛は学校で習うこと、教科書から学ぶものはすべて「正しい」と思っていた。疑問など挟む余地もなく、すべて受け入れてきた。そういう素直さは美点であり、ほとんどの場面 ――たとえば人間関係を構築する場面―― において歓迎されるだろう。

 愛は、「本当にそうなのか?」「なぜ」という疑問を抱くことが、自分で考えるチャンスの入り口だということを、学生時代に偶然出合った「社会学カフェ」で知った。

 そこで「考えた」こと…決まった答えが必ずしも存在しない問題に向き合い、あーでもないこーでもないと意見を出し合って頭を悩ませた経験は、いわゆる学校のテスト問題を解く際に求められた「考える」行為とはまた異なっていたように思う。

 学校で出題される問題には、概ね「正しい答え」というものがある。
 教えられたことに従い、ある程度の知識を備えていれば必ず正しい答えにたどり着ける。その「正しい答え」にたどり着こうとする行為も「考える」行為に違いない。

 しかし残念ながら、教科書に書いてあることに従ったからといって人生で直面する問題がうまく解決する保証はない。そもそも「正しい答え」が用意されているなんてことはほぼ皆無だ。

 事実、愛は小さなものを含めるとこれまで数え切れないくらい間違ってきたし、たくさん後悔もした。
 子どもたちを前にすると、否応なく自身の失敗や後悔も同時に思い返された。自分と同じ轍を踏んでほしくはない。どうすれば伝わるのだろうか。がしかし、説教くさいのはどうも性に合わない。

 ――あれ?甘い匂い…いや、レモンに近い?
 不意に訪れた香りに顔を上げると、一羽のチョウが愛の目の前を通り過ぎた。
 そうだ、今日は窓を開けていたんだった。無風であっても、こうして春は運ばれてくる。
 生徒らは誰も突然の来客の存在に気付いてないらしい。案外、自分だけにしか見えていないのかも?なんてメルヘンチックな考えが脳裡を掠める。

 そう、教えるって言ったら、やっぱり私の中ではいつまで経っても侑が一番に出てくるんだよね。
 侑は、中学生の時に誰でも気軽に社会学についておしゃべりするという「社会学カフェ」を運営していた。もとは当時の同級生――愛の初恋の相手だった――が発案して始まったそうだが、社会学に最も精通していた侑が主催者を務め、テーマの提供や解説、そして進行までこなしていた。

 侑の話はとにかく面白くて、教え方も抜群に上手かった。右から左に流れていくような話ではなく、気がつけば夢中で耳を傾けてしまうような興味深さがあり、さらには聞いている側に自然と「なぜ」を感じさせ、思わず質問したくなる話ぶりでもあった。

 ……すごすぎて、嫉妬する気持ちすら湧かなかったんだっけ。愛はふふ、と胸の内で笑う。

 何より愛が焦がれたのは、侑の自分を見失わない強さだった。遠目から見ていた頃は、その茫洋としたところに不気味さを感じていたのだが、いざ関わりをもつようになってからは、一気に印象が変わった。外野を気にせず自らの意志を貫き通す芯の強さ、自分と違う意見や価値観に対し攻撃的になったり排除しようとしたりせず、ただ「ある」ということを認めようとする姿勢……

 こういう人が教師になるんだろうなと愛は思っていたし、侑が先生ならさぞかし楽しいんだろうなと想像したこともある。それなのに、気がつけば教壇に立っているのは愛だった。これだから人生わからない。

 人の顔色を窺って、周りの目を気にして、自分の意思が疎かになっていた学生時代。
 当時は今よりずっと視野が狭く、狭量で、集団に流されることでしか自分の居場所を確保できなかった。

 間違いたくなかった。嫌われたくなかった。そのために、人を傷つけたことだってあった。
 積年の後悔は、今もたまに顔を出して愛の判断を鈍らせる。

 誰にも言っていないけれど、今だって教師に向いているのは侑の方だと思うし、私に教える資格なんかあるのかって不安でいっぱいなんだ。
 だけど、侑が、教師は愛の天職だと言うのだから――きっと、そうなのだ。

 欠けているところがあるからこそ、気づけることがある。
 たくさん間違って、後悔したからこそ、伝えられることがある。
 自分がなりたくて、選んだ道なんだ。逃げるな。目を背けるな。
 まだ、やれること、できること、たくさん残ってるでしょう。
 今のこの時間のように――
 教師モードのスイッチを入れ、ぐるっと教室内を見渡した。

「さて、そろそろ誰かに聞いてみようかな?」

 愛の一声に多くの生徒が自信なげに視線を落とす中、博郷義教ひろさとよしみちと目が合った。「当てても大丈夫?」との気持ちを込めて愛が見つめ返すと、義教はわずかに口角を上げ低く手を上げた。少し恥ずかしがり屋さんなところは変わっていない。懐かしく思う気持ちとともに、鮮やかな光景がまぶたに浮かぶ。

 愛は以前、義教の担任を受け持ったことがある。彼が小学三年生の時だ。
 個人差はあれど、三年生は言葉使いが悪くなり、他人に対する悪口も言えば反抗的な態度も目立ってくる。愛が担任した三年生のクラスもそうした傾向が見られた。

 ある日、授業に向かう途中の廊下で「殺すぞ!」「死ねばいいのに」などの物騒な言葉が愛の耳に飛び込んできた。やめさせなければと足を早めた瞬間、「そういうの、もうやめようよ!」と叫ぶ義教の声が耳に届き、愛は思わず驚いて立ち止まった。

「言葉には、言霊っていう不思議な力があるんだよ。出した言葉が、その通りになるんだ。みんな、本当に死んで欲しいって思ってないでしょ?殺したくないでしょ?自分が言われて気持ちよくない言葉を言うのはもうやめよう」

 愛が出るまでもなく、その日を境に心ない言葉は減少していったのだった。

 義教を指名する。
 すっかり背も伸びて、「はい」と起立する姿がとても頼もしく見えた。

「間違ってるかもしれないんですけど、皆が本当に自然権を放棄してちゃんと契約してくれるのかなって思って…自然権が保障されるといっても、人間そんなに合理的に行動できるか疑問です。反発とかあったりしないんでしょうか」
「義教すげぇ!」

 隣の席の翔吾が興奮気味に義教の背中をバシバシ叩く。

「いや、合ってるかわかんないから」と義教は照れ笑いし、「痛いよ」と翔吾の手をやんわり制した。

「…私もいいですか?」

 そう言って遠慮がちに手を挙げたのは、栄名玲緒えいなれおだ。
「もちろんよ!」と歓迎する愛に一礼をし、立ち上がる。艶のある玲緒の黒髪がさらりと流れた。

 玲緒は今年初めて愛のクラスの生徒となった一人だ。引き継ぎの際、前年度に玲緒の担任をしていた教員からは、どちらかというと控えめな生徒であると聞いていたが、その情報はすぐに塗り替えられた。

 誰に頼まれるでもなくそっと花瓶の水を換え、手を抜くか遊びがちになる掃除の時間では、周りに流されることなく黙々と教室や廊下の四隅まで綺麗にしてしまう。

 控えめ、というが、玲緒は決して受け身ではない。自分が目立とうとしていないだけで、彼女は積極的に行動するタイプだ。それも、自分のためではない。人のために、である。

 玲緒の視線を真正面から受け止める。ちゃんと人の目をみて話す子のようだ。
 ふと、眼鏡の奥にある強い光に気づいた。頑張り屋さんの眼だな、と愛は思った。

「さっきの、博郷さんの答えを聞いて思ったんですけど、確かにそもそも契約してくれるのか不安が残りますし、契約できたとして、皆が契約を守りつづけてくれるかわかりませんよね。何か他に…条件というか、必要なものがあるような気がして。そういうところが納得できないというか、気になるかも…です」

「玲緒ちゃん、緋沙もそれ思ってん!契約したからって守り続けてくれる保証なんてないやん?皆そんなにちゃんとした人なんかなって。ほら、例えば信くんはちゃんと守ってくれそうやけど、翔吾くんはどうかな〜怪しない?」
「えー!俺、こう見えてちゃんと守るよー?もうすげぇ守る!」

 とても守りそうになど聞こえない翔吾の口ぶりに皆がどっと笑い、愛もつられて笑ってしまった。

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