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第3話 「未来と勇気の放課後」

(既読)調べものがあるので、今日は図書館に寄ってからスクールバスに乗って塾に行きます。

わかりました。塾に着いたらまた連絡ください。
おばあさまが心配しますからね。

 お母さまからの返信を確認し、スマホのチャットアプリを終了する。
 学校を出た私は、塾がある方向とは正反対の図書館に来ていた。
 いつもなら、学校が終わるとそのまま塾の自習室に直行して授業が始まるまで黙々と勉強に打ち込むのだけれど、今日はどうしてもそういう気分になれなかった。

「社会学部」に入部するかどうかは別として、いつまた「社会学」の話題が出るとも限らない。
 そのときに、今日と同じく建設的な意見一つも言えずに終わるのはもうご免だ。これ以上、悔しくて惨めな思いはしたくなかった。
 天藍の合格を目指す者として、クラスメイトに引けを取るわけにはいかない。

 つまり、いつものように塾で自習するよりも、図書館で社会学について調べることを優先させるだけの理由は私の中ではっきりあったのだ。
 …だけど、たとえ私にとって相応しい理由があろうとも、受験勉強を差し置くに等しい行動をするのは少々後ろめたい気持ちになる。
 わざわざ受験勉強の時間を削ってまでそうする価値があるのかと問われると、途端に自信がなくなってしまう。自分が、おばあちゃまやお母さまを裏切るような行動をしているのではないかと怖くなる。……私にはもう後がない、と言われているのに。

 私は再びスマホを取り出し、後ろめたさを追い払うかのごとく、メッセージを打ち込んだ。

 はい。調べものが終わり次第、すぐに塾に向かいます。

 送信とほぼ同時に既読がつく。
 私は胸を撫で下ろし、早足で入館ゲートを抜け、一直線にレファレンスカウンターを目指した。
 さいわい、図書館が空いていたこともあり、職員さんに社会学の本が所蔵されているフロアまで案内してもらった。
 そこは二階にある人文社会科学のコーナーだった。

(え…社会学って、こんなに種類があるの?)

 上から下の段までびっしりと本が納められたスチール製パネル書架の並びを前に、私は目を白黒させる。

 家族社会学、環境社会学、観光社会学、教育社会学、現象学的社会学、現代社会学、古典理論、産業社会学、ジェンダー論、社会心理学、社会調査論、宗教社会学、数理社会学、地域社会学、知識社会学、犯罪社会学、文化社会学、法社会学、マス・コミュニケーション論、歴史社会学、労働社会学………

 ざっと目視するだけでは、とても把握しきれそうにないカテゴリの多さだ。
 この図書館は蔵書数が多いとはいえ、大学などに比べると専門書はそこまで豊富ではないとさっき案内してくれた職員さんが言っていた。ということは、ここに所蔵されている以外にも、まだまだ「社会学の世界」が存在すると考えた方が良さそうだ。

 とりあえず、初心者向けらしきタイトルの本をいくつか借りてみようかと手を伸ばしたその時、

「…未来(みらい)、ちゃん?」

 低い響きを含んだ声に後ろから呼ばれて、私は思わずびくっと肩をすくめた。
 誰だろうとおそるおそる振り返ると、目線のほんの少し上に懐かしい顔があった。

「佑希…君?」
「ごめんごめん!びっくりさせちゃったね。俺…あ、僕の学校、今度校外学習があるからそのための事前準備で本を探しに来てたんだけど、未来ちゃんぽい女の子が見えたから、もしかして…と思ってさ」

 佑希君、声変わりしてる…!しかも呼び方まで「俺」に変わった…?

 青桐佑希君は、私より二つ年上の中学二年生だ。
 天藍に落ちて意気消沈しきっていた私の事情を知ってか知らずか、佑希君は同じ登下校班に所属していた私の面倒をよく見てくれたお兄さん的存在だった。

 佑希君が小学校を卒業してからは互いに接点がなくなり、こうして言葉を交わすのは本当に久しぶりだ。
 そっか…私に合わせて、昔のように「僕」って言い直してくれたのかな。佑希君のさりげない心配りに気づいて、強張っていた私の身体から力が抜けていく。

 相変わらず、本当に優しいな…。
 小学一年生の時から、私には仲良く話せる相手がいなかった。
いじめられていたとか、そういうわけではなかった。どちらかと言うと、私の方がみんなに対して垣根を作っていた節が大きい。

 ――ここはあなたの居場所じゃありません。本来あなたが居るべきは天藍なのですよ。

 そんなおばあちゃまの言葉に呼応するかのように、私は自分から周囲と打ち解ける努力はまったくしてこなかった。実際、当時の私は今よりずっと無表情な子だったと思う。

 最初は興味をもって話しかけてくれた子たちも、心を閉ざしていることを隠そうともしない私の態度に愛想を尽かして、どんどん離れていった。
それでも私は全然構わなかった。私がすべきことは、小学校で仲の良い友達を作ることではなく、天藍に合格するために努力することだから。

 …でも、佑希君だけは違った。
 私がどうあっても、佑希君はずっと声をかけ続けてくれていた。

『おはよう、未来ちゃん』『昨日の学校はどうだった?』『未来ちゃん、一緒に帰ろう!』
『未来ちゃん、どうしたの?』『未来ちゃん……』

 気がついた時には、佑希君を心のどこかで頼りにしている私がいたのだ。

(佑希君なら、なんて答えるのかな…)

「…佑希君。社会秩序って、どうやって保たれていると思う?」
「えっ?」

 ――しまった。つい、気が緩んで声に出してしまった。
 佑希君は手で顎をさすりながら、律儀にうーんと考え始めている。

「ごめんなさい!なんでもないの。ちょっと聞いてみたくなっただけっていうか…ええと、今日の社会の授業で話題に出たっていうか……。何の脈絡もなくこんな質問しても、訳がわからないよね。えーと、佑希君も本を探してるんでしょ?」

 慌てて取り繕う私の顔を佑希君はじっと見つめて、こう訊ねた。

「未来ちゃん、今日って時間ある?」
「う、うん…。塾はあるけど、それまでの間は図書館で過ごすって母に連絡してあるから、一時間くらいなら…大丈夫」

 すると、佑希君は白い歯を見せながら「わかった!じゃあ、ちょっとここで待ってて!」と一階の方へ降りて行ってしまった。

 佑希君の行動に面食らいながらも、何もせずにいるのも時間がもったいなくて、気になる本を二冊ほどピックアップしていると、小さな紙を手にした佑希君が戻ってきた。

「急にどうしたの?」
「ごめんごめん。それより本はもう見つかった?」

 私が肯くと、佑希君は「よかった、それじゃあ僕についてきて!」と言って歩き出してしまった。佑希君のことだから、きっと何か考えがあるのだろう。
 人文社会科学のコーナーを背にして、フロアの突き当たりまで進んだところに部屋が四つあった。
 部屋のドアはすべてガラス張りで、中の様子が見える仕組みになっている。

「ここって…」
「グループ学習室。未来ちゃんは初めて?」

 佑希君は右端の部屋の前まで移動し、小さな紙を見ながらドア横の液晶画面に暗証番号らしきものを入力した。ガチャっと鍵の開く音がするのと同時に、室内の電灯が点いた。画面には「使用中 XX時~○○時」と表示されている。公共の図書館にもこんな設備があったなんてと舌を巻いていると、佑希君がドアを開け「どうぞ」と入室を促してくれた。

 八畳くらいの広さに、可動式の机と椅子のセットが六組、向かい合わせにかためられている。ホワイトボードやモニター、複数のケーブルにノートパソコンも一台備え付けられていて、かなり使い勝手の良さそうな部屋である。

「中学に入ってグループワークとかプレゼンが増えたからさ、その準備や話し合いで時々使うようになったんだ。ここだと、会話OKだから周りを気にせず話ができるよ」

 佑希君は机の上にかばんを置きながら、いまだ部屋の中をしげしげと観察する私に「さ、未来ちゃんも座って座って」と明るく呼びかけた。
言われるままに佑希君の真向かいの席に座ると、佑希君はニッコリ微笑んだ。小学生の時と変わらないその笑顔に、私もつられて破顔してしまう。

「何があったの?未来ちゃん」

 どこまでも澄み切った目と優しい声。
 私に「何か」があったことを確信しているのだろうか。
 ――だめだ、適当にかわすことなんてできない。
 佑希君を前にすると、なぜか「言いたくない」より「聴いて欲しい」が勝ってしまう。

 私は佑希君の顔から一瞬視線を外し、気付かれない程度に唇の内側を軽く噛んだ。

 聴いてもらうとして、あの「四時間目」の何を、どこまで、話せるか…。
私の心に漠然と広がり続ける不安や焦り、そういった「内面」を口にするにはまだ整理がつかなかったし、そもそもどんな風に言葉にするべきかもわからない。そうだ、私は自分の胸の内を話すということをほとんどしたことがないのだから当然と言えば当然だろう。

 そう割り切った私は、感情の面は一切排除して、今日の四時間目で起こった「出来事」――クラスメイトによる「社会はどうやってできているのか」という質問、その質問に答えるため社会学の授業が展開されたことやそこで学んだ授業内容など――について話した。



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