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プリンと、卵と、おつかいと。
コロナウィルスのワクチン接種2回目が終わった。
聞き及んでいたとおり、2回目後の副反応はそれなりに辛いもので発熱が続き食事も喉を通らない。それでもまだ私はましなほうで、妻は3日会社を休み、その後もどことなく元気がない。副反応の症状は女性が強く出るらしく、抵抗力が弱ったせいか膀胱炎にまでなってしまった。
食欲の戻らない彼女が食べれるものはと何かと考えて、初めてプリンを作ってみた。クックパッドのレシピと首っ引きで材料を計り、混ぜて、器に入れて湯煎焼きをする。念には念をと、卵液は2回裏ごしをした。容器はプリンで有名なマーロウの空きガラスカップを使うことにした。
果たして初めてのプリンは舌ざわりは少し硬く、わずかではあるけれど ”す” が入った仕上がりとなった。
「初めてにしては美味しいよ」
滅多に口にすることのない妻の言葉を聞く。発熱続きでぼんやりとした味覚にもそれなりに効果があったようだ。なんだかくすぐったい気持ちになる。
―
子どもの頃、一時期まで私は卵が苦手だった。ぬるりとした感触と生臭い匂い。時折、母の手伝いをして卵を割ったときに赤い血のようなものが混ざっていたこと。黄身の左右にある白いカラザ。銀色のボウルにいくつもの卵が浮かぶさまは見知らぬ生き物に見つめられているようでとても怖かった。
まだ小学1年生くらいの頃だったろうか。母に頼まれて卵を買いに行った。スーパーマーケットは近くになく、近所の養鶏場に行ったことを覚えている。私にとっては生まれて初めて一人で行くお使いだった。見覚えのある道を思い出しながらも、うろ覚えのまま私は歩いていた。
養鶏場に着いた。鶏の止むことのない甲高い鳴き声とせわしなく動く首。少し離れたところからでも漂う不快な匂いにお腹の底がキュウと締め付けられるようだった。それでもあらん限りの大きな声で、「卵ください!」と言ってみる。
しばらくして、鶏舎の奥から知らないおじいさんが出てきた。母と一緒に買いに来た時は優しそうなおばさんだったのにな。。と思いながらもう一度、「卵ください。」と言ってみる。するとそのおじいさんは私をギロリとにらんで、「ないよ」と言うのであった。私はどうすればいいのかわからなくなってしまい、ペコリを頭を下げ、逃げるようにその場から離れた。怖くてたまらず自然と涙が込み上げてきた。
後でわかったことだが、私が行ったのは知っている養鶏場ではなかった。道ひとつ先にある目的地にたどりつくことが出来ず、手前にあった別の場所に行ってしまっていたのだった。その後、母といつもの養鶏場に行って事の顛末を話すと、いつものおばさんが
「いじわるなおじいさんねぇ。」
と慰めてくれた。申し訳なく思ったのだろうか、帰りにお菓子をいただいた記憶が微かにある。何しろ半世紀近くも前の話だから、本当にそんなことがあったのかどうかすらも、定かではないけれど、その後しばらく続いた卵嫌いの一因だったのかもしれない。
―
記憶の底にある原体験はその後の人生の成り行きをも支配するのだろうか。意気揚々と出かけた後に見誤った道程とその先にある予期せぬ結末。私をギロリとにらんだおじいさんの生白い目と見開いたままの無数の鶏の目。その鶏が産み落とした卵がボウルの中で放つ、鈍い光と混濁に私はすくむような怖さを感じていた。その時からきっと「怖れ」が私の性格の一部を占めているのだ。「怖れ」の対象がはっきりとあるのではないけれど、ぼんやりとした怖さがつきまとう。身体の芯ごと絞られてしまうような感覚。
思い返せば、たとえどんなに楽しく、希望に満ちたことが目の前にあっても同質量の恐怖や失望が潜んでいるように常に感じていた。等価交換の原則ではないけれど、そうやってひっそりと待ち構えているものをあの時からずっと「怖れ」ているように思う。いつしか苦手意識も薄れ、平気で卵を口にするようになってからはそんなことも久しく忘れていたのだけれど。
卵は「命そのもの」の色と形と匂いを持って私たちの食卓へと運ばれている稀有な食材だ。だからこそ昔はめったに食べられない滋養食品として貴重な存在でもあったのが、スーパーの特売で山積みにされるほどありふれたものに変わってしまった。今どき養鶏場にわざわざ、しかも子ども一人で求めにいくような場面も、もはやないだろう。誰も知らない場所で産み落とされた卵は背後に潜む血生臭さなど微塵も感じさせずに売り場に並ぶ。でももう、それでいいのかもしれない。
プリンを作るためにせっせと大量の卵を割りながら、思ったことだ。
イラスト:koruriさん
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