「対人恐怖」は「対人恐怖」か①

今回は「対人恐怖」について自身の体験から得た気づきを皆さんにシェアしたいと思います。

ここで注意していただきたいのは私自身は「対人恐怖症」ではありません。正確にいうと、「病気」として診断されていません。そもそも病院にさえ行っていません。その事情は諸々ありますが、私の発言はあくまで「対人恐怖症の人の発言」ではなく「対人恐怖があると自己診断している人の発言」という位置づけであることをご了承ください。

さて、私自身人と付き合うことに抵抗を持っています。人と接するとだんだん頭がマヒを起こす、といった感覚があります。このおかげで学校生活は思い出すだけでため息が出ますし、なぜかよくわからないんですが記憶が断片的でよく思い出せないことが多いです。

そんな私は「私は人間が本質的に嫌いなんだ」と思って日々を鬱屈と過ごしていました。現在は半引きこもりの状態で通信制の大学に通っています。

そんな日々を過ごしていたある日、私はある気付きを得ました。それは「人から褒められるとうれしい」というものです。当たり前すぎて、は?とお思いになるかもしれませんが、どうかブラウザバックするその手をどうかお納めください(笑)

なぜこの気づきが重要かというと「私は人間が嫌い」にもかかわらず「私は人間に認められるのがうれしい」という事実に気づけたからです。

一見矛盾するこの事実が私を苦しめました。そしてそれを受け入れるのに時間がかかりました。なぜなら、「私は人間が嫌い」なのではなく「私は人間を嫌いになりたい」ということ、いいかえると「私は人間が好きなのに、人間を嫌いになりたい」と思い込んでいるという事実に無意識ながら気づいてしまったからです。

「人間が好きなのに、嫌いになりたい」問題を解決するには、なぜ「人間を嫌いになりたいのか」について過去を顧みて原因を探る必要があります。

そこでわたしは過去を必死に探りました。いやな気分になることもありましたが懸命に探索しました。その結果、最初の気づき「人から褒められるとうれしい」言い換えると「人から認められたい」という願望こそが原因であると確信しました。

なぜその願望が根本にあるとわかったのか、それに関しては割愛させていただきます。これ以上長くなるとグダグダすると思うので(笑)。

とにかくここで私が申しあげたいことは「対人恐怖」は「対人恐怖」というよりは認められないことへの欲求不満、フラストレーションからくる一種の「反抗」である可能性が出てきたということです。

かまってほしい、認められたいという思いが根底にあるからこそ「人が嫌いだ」という「反抗」を取るのではないでしょうか。

もちろんこれは一つの側面から「対人恐怖」を説明したもので実際はもう少し複雑でしょう。実際私自身も感じることですが人間の「攻撃性」とか「動物性」あるいは「支配性」といったものに対して過度な恐怖感を感じます。

これは認められる、認められないという次元では説明できません。これはまだ自分自身もわかっていませんが仮説として気質・性格が原因として挙げられます。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!


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