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頭のてっぺんから足の先まで女の子だった。(ナオミ・ウルフ)

久しぶりに、20代の学生時代の古いノートを引っ張り出してみたら、こんな文章を手書きで書き写していた。今でも、古びていない言葉。いまでも、同じ事を感じている自分がいて、驚く。

「ときどき自分が三十女みたいな気がするの。私のセクシュアリティって男みたいなの。仕事中にときおり男を値踏みしている自分がいて、まわりに気づかれやしないかと不安になる。あたりを見回して思うの。わお、男がいっぱいいる。独身だったら、この男たちをみんなつまみぐいしちゃうのにって。そしたらすごく楽しいだろうなと思うわ。たぶん高校生のときにも、大勢の女性たちが同じように考えたんじゃないの?でも私は――あのころはただひたすら、あんなことはやりたくなかった。」            
パティは言葉をつないで巧みに表現した。             「セックスによって女になるんじゃないわ。理想的にはまず一人の人間になり、そこから性的な人間になる。少女が『女になる』ための鍵をまるで男性が握っているみたいに思われているじゃない?女の子が女になるのを決めるのは、男であってはならないわ。いまでは、私は性的にあのころよりもはるかに気分良く女でいられる。女であることを楽しんでいるし、性的にも満足している。でもあの頃をふりかえってみると、私は甘えん坊の少女にすぎなかった。世の中をどう歩いて行っていいのか、わからなかった――」
「私たちは女の子だった」「少女だった」 
「頭のてっぺんから足の先まで女の子だった」

性交を経験したといっても、私たちはまだ少女だった。少年や大人の男たちが性的に期待しているものが何かは分かっていたが、自分が世界でどれだけ力を持っているのかは分からなかった。自分自身のからだよりも、男の欲望についてよく知っていた。だが、あの頃はうまく表現できなかったが、性交は「女として一人前になる」には十分ではないとわかった。
キャメロンが取材したアメリカ・インディアンの女になるための通過儀礼は、私たちのとはずいぶんちがう文化をあきらかにしている。      「女になることはたやすいことではない。一つのところにじっととどまっていては女になれないし、からだが変化したからといって大人とは認められない」。                        
「女になる」ことを他人任せにするなという教えは、私たちの社会が少女たちに教えていることとは反対である。(ナオミ・ウルフ『性体験』より)

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