見出し画像

南蛮貿易時代の豪商・末次興善

 長崎市中心部に、興善町(こうぜんまち)という南蛮貿易時代に生まれたまちがあります。国道34号線沿いにある旧長崎県庁と長崎市役所のちょうど真ん中あたりで、長崎市立図書館(長崎市興善町1-1)のある一帯です。

 令和のいまにつながる長崎の町建ては、400年以上も前の元亀2(1571)、ポルトガルとの貿易を行うために、港に突き出た岬に6つの町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町)を築いたのがはじまりです。全国各地の商人やキリシタンが集まり賑わいを増すなか、町域はしだいに拡大し、新しいまちが次々に生まれました。興善町はその初期の頃に開かれたまちのひとつです。

その2

 興善町から県庁側をのぞむ。かつての6町界隈。

 それぞれの町名は、住民の出身地や職業にちなんだもの(材木町、紺屋町、酒屋町など)が多いなか、興善町は当時としてはめずらしく人名ゆかりのもので、私財を投じてこのまちを開いた「末次 興善久四郎」(以下「興善」)の名が付けられています。
 興善は博多商人でした。その父は、周防(山口県)の大内氏の旗下に属し、大内氏が明との貿易の本拠地とした博多に住んで貿易がらみの仕事をしていたようです。当時は群雄割拠の戦国時代。博多には俗にいう「武士崩れ」と呼ばれる商人が大勢いたそうです。大内氏もまた重臣の反乱をきっかけに滅び、興善の父もいわば失業の身、「武士崩れ」となります。その頃の興善はすでに父と同じく明との貿易の仕事に従事。商人としての活動するなか、縁あってキリスト教の宣教師たちと交流を持つようになります。
 争いの絶えない世に生きる人に、キリスト教の教えは心に響くものがあったのでしょう。興善はたいへん熱心なキリシタンとなり、「コスメ」という洗礼名も授かりました。日本側のイエズス会の会計や雑務係をしていたともいわれ、ルイス・デ・アルメイダ(1567年に長崎で初めてキリスト教を布教した宣教師)の各地での布教活動に同行したこともあったようです。ルイス・フロイスの『日本史』にも興善が熱心な信徒であったことがわかるエピソードが記されています。

その3

興善と交流のあったアルメイダの碑(長崎市桜馬場)

 興善は布教活動に同行中の堺で、宣教師から長崎開港の話を聞いて、息子(平蔵)や使用人たちを連れて長崎にやって来たといわれています。ところで、当時、長崎にやって来た各地の商人たちは、みなキリシタンだったといわれています。キリスト教の布教と貿易を同時に行おうとするポルトガル側に対して、日本の商人たちは、まずキリシタンになることがスムーズな交渉の第一歩だったのです。ですから、興善のように慈悲、慈愛といったキリスト教の教えに導かれた者だけでなく、商売のために信者となった者もいたようです。
 長崎での興善は、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得、町建てにも関わり、慈善事業にも多額の寄付をするなどしました。

その4

興善も寄付したという福祉施設跡(万才町)

 その後、キリスト教の禁教令が敷かれ、取り締まりが厳しくなるなか、興善がどのように難を逃れたのか、その詳細については残念ながら不明です。一説には、かつて共に長崎入りした息子より長生きしたともいわれ、その墓はなぜか博多の妙楽寺にあります。ちなみに息子は、キリスト教を棄て長崎代官となった「初代・末次平蔵」です。

その5

博多・妙楽寺にある興善の墓

 激動の時代をいくつもくぐり抜けるうちに失われる町名もあるなかで、いまもしっかり残る「興善町」。そのルーツを知るにつけ、キリスト教がらみゆえに繁栄の形跡をほとんど消されてしまった南蛮貿易時代の長崎が垣間見えるようで、面白い。「末次興善」は当時を知る重要人物であることは間違いないようです。

その6

末次平蔵の代官屋敷跡(桜町小学校)

◎ 参考にしたもの/長崎史談会11月例会『長崎の豪商・末次興善』(松澤君代)、『長崎文化考~其の一~』(越中哲也)

※この記事は2014年12月10日にみろくやWEBサイトに掲載したコラムを一部修正し掲載しています。

株式会社みろく屋
 みろくやは長崎のソウルフードであるちゃんぽん・皿うどんを代表商品として、長崎の「おいしい」を全国に向けて発信している企業です。
「おいしい笑顔」は「幸せな笑顔」。私たちはお客様の「おいしい笑顔」のために日々努力し、前進し続けてまいります。
株式会社みろく屋ウェブサイト https://www.mirokuya.co.jp



この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?