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読んで踏まない

 貸した本が返ってくるとき、まるで踏み絵みたいだな、と思う。
 感動の再会を果たした一冊の本を見て、ときめいたり、傷ついたりする気持ち、本を愛する人ならばわかってもらえるだろう。

 これまで、そんな踏み絵を何度も踏まれてきた。特に覚えているのは、大学生の頃、人生のバイブルである漫画を、クラスメイトに返してもらったときのことだ。
 半年ほど貸していて、早く返してほしかったけど読んでもらいたいからなかなか言い出せず、どうしたものかと思いあぐねていたとき、それは起こった。あれはたしか、大学構内にある食堂でのことだった。

 「あ、そういえば」と、雑談の流れで思い出したかのように彼女がカバンから取り出したのは、貸していた私のバイブルであった。
 むき出しのまま突っ込まれていたものだから、カバーの角はよれて帯も少し破けている。それを何の気なしに「はい」と渡されて、私の思考は停止した。「ありがとう」とは言えず、言葉が詰まった。悲しかった。

 でも、言えなかった。こんなことで傷ついている自分を、恥ずかしいと思ったのだ。彼女のことは好きだったけれど、「この人とは根っこの部分ではわかり合えないんだろうな」という、諦めの気持ちさえ湧いた。
 まさに、踏み絵が踏まれた瞬間。こういう経験が初めてだったわけではないのに、なぜかこの日を堺に、今でもずっと、誰かに本を貸すのはちょっとだけ怖い。

 社会人になり、そんな気持ちをほんの少しだけ和らげてくれる出来事があった。幸いにも本好きが多い会社に入社し、仕事の合間に最近読んだ本を薦め合う機会がしばしばあった。
 そうなれば、お気に入りの本を貸し合うことになるのはごく自然な流れで、もちろん「嫌です」とは言えない。

 あるとき、同僚に『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』という本を貸した。韓国で出版された作品で、毎晩抱きしめて眠りたくなるような、私にとってとても大切な一冊だ。
 いろんな意味でドキドキしながら、私は彼にその本を渡した。

 それから一週間ほど経ったある日のこと。休憩中に彼が「これ、読んでるけど、面白いね」と話しかけてきた。
 〝これ〟が指す方へ目をやると、なんと、読みかけの本をわざわざ自前のPP袋に入れて持ち歩いていたのだ。

 私はそれを見て、以前とは違う意味で、息が詰まった。嬉しかった。
 本を貸した人が、大事な本を、私と同じように大事にしてくれていることがわかって、胸がいっぱいになった。ああ、この人も本が好きなんだな、と思った。
 本を雑に返されて、落ち込んだことにすら傷ついたあの日の私を、正しい、と言ってもらえたような気がした。

 それ以来、この本を見るたびに、PP袋に包まれていたときの光景を思い出す。
 私も誰かの踏み絵を決して踏まず、当たり前のように袋に入れて持ち歩き、雨の日は自分のカバンよりも大事に、大事に守りながら帰るような人でありたい。

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