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「歯車」としての演者

私は学生時代、吹奏楽部に所属していた。
担当は打楽器。打楽器の役割とは何か、と考えた時にパッと思いつくのは二つ。一つはリズムキープ。もう一つは効果音。
一つ目は説明するまでもないと思うので、二つ目についてちょっと考えていたことを書いていきたい。
打楽器と一括りに言ってもメロディを奏でられる鍵盤楽器も存在するから一概には言えないのだが、基本は脇役、というより最早装飾である。

ある時、技術指導のコーチが言った。
「打楽器一発で曲は壊せる」 

私の中で考えられるその言葉の意味は、シンプルに打楽器は音量が大きいから失敗したら影響が大きいということ。
もう一つは「適切な装飾」でなければならないということ。例えば、白いウェディング着た花嫁が鉢巻を巻いて虫取り網を持っていたらちぐはぐだろう。そんな装飾なら無い方がマシだと思う。純白の花嫁にはやっぱりベールとブーケが似合う。

そう、装飾なのだ。

音楽はライブパフォーマンス。
同じ曲を演奏したとしても、演奏する人、団体が違えばそれは全くの別物になる。それが個性であり、面白さでもある。だが、(オーケストラは未経験なので)少なくとも吹奏楽において、打楽器はその「個性」に関与していないんじゃないか、と

曲の中の主役はメロディだが、曲はメロディだけで成り立っている訳では勿論ない。ベースラインだったり、ハーモニーだったり、裏メロディだったり、そういう土台からの積み重ね、その一体感でメロディが引き立つ。だが、打楽器はここに入ることができない。この外側から、一つになった音の塊にさらに装飾を施していくような。
一つになったものを壊してはいけない。捻じ曲げてもいけない。最早、自分を出すことは許されず、一つになった音の塊にぴったりと添えるように自分を消すような感覚だ。

ここまで長々と語って、実は「打楽器とはなんぞや」ということを語りたい訳ではなかった。所詮私は素人だし、この考えが正解だとは思っていない。

では何が言いたかったかというと、この、同じ舞台に上がってスポットライトを浴びているのに、一つの音楽を奏でているのに、外野であるという奇妙な感覚をどうにかして言葉にしてみたかったのだ。
管楽器が役者だとすると、打楽器は効果音であり小道具である。
打楽器奏者である当時の私は、紛れもなく演者であった。演者であるのに、演者としての私はいなかった。
私は歯車だった。

演奏をしていると、指揮者と目が合うことがある。
その視線で、私という「歯車」に何が求められているのかがわかる。
曲というのは、毎回同じように演奏できるわけじゃない。その時の気分、調子、会場、その他諸々の理由で毎回変化する生き物のようなものだ。

だから、その時、その瞬間、その曲の雰囲気に当てはまる音、ピースはなんなのか。
私はどんな形の歯車になるべきなのか、それをあの目があった一瞬で考え、返事する。
そんなことをしていた。

徹底して私という「個」を殺して、「曲」と「指揮者」に委ねる感覚。
私は、曲に適切な装飾を施す役割を与えられた、そういう装置だったのかもしれない。


支離滅裂になって何が言いたかったのかわからなくなったが、私が言いたかったのは、吹奏楽が楽しかったということだ。


おわり

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