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本>『ハングルへの旅』茨木のり子

最近、病院での待ち時間が多く、キンドルを持ち歩いている。入院することにもなりそうで、入院中に読む本も何かと見繕っている。

そんな中で楽しみながら読んでいたのに終わってしまった本。

詩にうとく、名前に見覚えがあったのでうっかり別の詩人と勘違いして買ったのだが、とても面白かった。
詩人だけあって、言葉が美しい。

茨木のり子 - Wikipedia

何より感じたのは時代の違い。
単行本初版は1986年。
当時は韓国語を勉強する人が少なく、韓国語を習っているというと、なぜかと聞かれたという。
韓国語教室の仲間には小さいころ朝鮮で育った、引き揚げてきたという人もいる。
約40年後に地方都市の田舎の公民館で韓国語講座が開かれ、TOPIK中級の試験に40人近く参加する時代が来るとは、当時は思いもよらなかっただろう。
韓流おそるべし!

私の父母より少し上の世代。漂わせる空気感は私が育った空気だ。

50歳を過ぎてから韓国語を学び始め、韓国語の詩の翻訳に至る。
すごいな、と思う。

インドネシアの影絵芝居ワヤンの松本亮氏は詩人で舞踏評論家だが、もともとフランス語専門だったのがワヤンに興味を持って40歳からインドネシアの言語の中でも敬語表現などがややこしく独自の文字を持つジャワ語を始め、ジャワ語でワヤンを演じるダランになったのもすごいなと思ったな。

縦組みで、ハングルもふんだんに使われ、ルビで読み方を振ってある。
韓国での旅行体験もよく出てくるが、少し前の地方の風景が多く楽しい。

擬態語をたくさん紹介してあったのも楽しかったが、日本の方言との対比が面白かった。

はい、という意味の「네(ネ)」。

「はい」という返事は
「네(ネー)」である。
「えっ?」と聞きかえす時は、
「네(ネ)?」と短く言い、
心に深くうなずく時は、
「네(ネエーー)」と長くひっぱり、
「네(ネー)、네(ネー)」と二つ返事の時もある。
 初めてこれを習ったときは、たまげてしまった。
 なぜなら、それは私の母の田舎ーー山形県庄内地方の返答のしかたとまったく同一だったからである。

韓国語と庄内弁の単語や語尾などの対比が興味深い。

それを発展させて古代日本語とのかかわりを考察する。引用されていた金思燁『古代朝鮮語と日本語』の、7世紀後半までは通訳が必要なかったという説に、図書館で読んだ九州の地名や言葉と古代朝鮮の言葉の関係を思い出した。

やはりその本の古代日本とご古代朝鮮語の対照表からの抜粋の表もある。こじつけがましいのもあるが、そうかもと思わせるものもある。

諺の紹介も楽しい。『俗談辞典』というものがることを知り、今度、韓国に行ったら書店で探してみようと思った。

暮らしの中の面白い表現も紹介されており、みなハングル併記なので韓国語学習者にも興味深いと思う。

この本には、韓流がそぎ落とした歴史と時代が色濃く反映する。

崔承喜の話が出てきた。初めて聞く名前だった。戦争も末期に民族名で日本で活動し熱狂的な支持を得たダンサーだ。

崔承喜 - Wikipedia

『母 My Mother』崔承喜の紹介動画作りました! - YouTube

浅川巧の話も出てきた。

柳宗悦に縁がある「浅川兄弟」の弟の方だそうだ。

浅川巧 - Wikipedia

朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯(高崎 宗司著)が紹介されていた。

著者は韓国に行ったときに浅川巧の墓を訪れようとするのだが、位置を尋ねに訪れた林業試験場で丁寧に応対され、車までだしてもらったそうだ。車を待つ時間に、当時を知る人の話を聞くこともできた。

「日帝時代のあの当時、およそ人間に対する差別(チャビョル)ということのない人だった」
差別 差別 差別…この言葉が耳底に残る。
(中略)
「一九四五年、日本が降伏したあと、日帝時代の怨みから、日本人の墓は蹴倒し、あばこうというような過激な心情を持つ人々が多かったが、浅川巧先生の墓だけは別だった。皆で守り、お仕えしてきた」
(中略)
韓国が好きで 韓国人を愛し
韓国の山と民芸に
捧げた日本人
ここに 韓国の
土と なる

まんなかのハングルの墓銘はこう読めた。

駒場の民芸館は一度行ったことがあるけれど、もう一度行ってみたくなったな。

続く話が詩人、尹東柱。
名前は聞いたことがあったのだが、同志社の先輩とは思わなかったよ。

尹東柱 [繁中]尹東柱詩文影像版 Yun Dongju Poems - YouTube


特集ドキュメンタリー] 忘れられないユン·ドンジュ

「映画『ドンジュ』で言えなかった話…··· ドキュメンタリー『忘れられないユン·ドンジュ』でご覧ください!」 *制作/麗水MBC(2014年)

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