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読書メモ|人間の建設(対談)岡潔・小林秀雄

岡:人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない。
小林:たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ。むずかしいことが面白いということがだれにもあります。(略)ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

岡:つまりひとは単細胞から二十億年かかってここまで進化したのです。この頃の人のやり方をみておりますとそういう崇高な人類史に対する謙虚な心がありません。コッホがコレラの原虫を発見した。これはすがすがしい科学の夜明けでしたが、それから第一次世界大戦で人類始まって以来の世界的規模の戦争を始めるまで、破壊力が科学によって用意されるまでにたった30年しかたってない。アインシュタインが相対性理論を出しましてから、それが理論物理の始まりですが、原子爆弾が実際に広島に落ちるまでに25年しかかかってない。すべて悪いことができあがるのがあまりに早すぎる

岡:いまの機械文明を見ていますと、石炭、石油、これはみなかつて植物が葉緑素によってつくったものですね。それを掘り出して使っている、ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電などといっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱はこのまま掘り進んだらすぐになくなってしまいそうなものですね。そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力電気だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。つまりいまの科学文明などというのは、ほとんどみな借り物なのですね。自分でつくれるなどというものではない。だから、学説が間違っていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設はなにもできません。いかに自然科学だって少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変わるでしょう。

小林:それから波動力学が盛んになったとき、おれ(アインシュタイン)はオーストラリヤの駝鳥みたいなものだ。おれは「量子」なんか見たくない。とルラティヴィスト(相対論者)の砂の中に首をつっこんでいる。そして隠れたと思っている駝鳥だと言っています。これはド・ブロイに宛てた手紙にあります。
(略)
小林:アインシュタインがボルンの宛てた手紙でこういうことを言っている。波動力学が流行したときに、おれはいやだ、いやだけれども、おれにはこれに対抗する理論は1つもない、あるのはおれの指だけだ、皮膚の中に深く食い込んでいる意見を証言している弱い指しかない、対抗する理論は1つもないということを言っています。そういうことを言っているアインシュタインは、これはもう感情の人ですね。

岡:ベルグソンの本はおかきになりましたか
小林:書きましたが、失敗しました。力尽きてやめてしまった。無学を乗り切ることができなかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけではものは書けません。そのときに、またいろいろ読んだのです。そのときに気がついたのですが、解説というものはだめですね。私は発明者本人たちの書いた文章ばかり読むことにしました。
岡:どうして解説書などという妙なものが書けるか不思議です。
小林:自分でやったひとがやさしく書こうとしたのと、ひとのことをやさしく書こうとするのでは、こんなにも違うものかということが私にはわかったのです。
岡:それはいいことがおわかりになりましたね。それはだめに決まっていると思います。

小林:老年になりますと、目が悪くなり、いろいろの神経も鈍ってきます。そうするとイマジネーションの方が発達してきますね。どうもそういうことを感じるのです。そうすると詩にしても、昔は随分受身でしたよ。向こうに詩がある、絵でもなんでもそうですが、こちらは敏感だから向こうから一生懸命にもらうのです。吸収する。そして感動したものです。それがこの頃では次第に逆になりまして、私の方からいろいろ想像をはたらかすのだな。

岡:赤ん坊がお母さんに抱かれて、お母さんの顔をみて笑っている。その頃ではまだ自他の別というものはない。しかしながら親子の情というものはすでにある。あると仮定する。そして赤ん坊にはまだ時間というものはない。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別なく、時間というものがないから、これが本当ののどかというものだ。それを仏教でいいますと、涅槃というものになるのですね。これが情緒なのです。

小林:そんなことがいったい人間に可能でしょうか。やさしい答えはたった1つです。人間に可能でしょうかなどという問題は切り捨てればよいのです。
岡:わたしもそう思います。わかるということはわからないなと思うことだと思いますね。

岡:知や意によってひとの情を強制できない。
(略)
じっさい、情が主人になって動きませんと、感情意欲が働かない、従って前頭葉が命令するという形式にならない、前頭葉を使い、使いながら強くなるという形式で頭脳も発達してこない。無理に癖をつけるやりかた、側頭葉しか働かせない教育、いくら厳しくしても自主的に自制力を使う機会を奪い去っているのだから無駄です。

小林:特攻隊のお話もぼくにはよくわかります。特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批評しますね。悪い政治の犠牲者という公式をつかって。そのひとの身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。
岡:極意のというのは簡単なことですな
小林:ええ、簡単といえば簡単なのですが。高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、そのひとの身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまでいって、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。

小林:あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。たいへん、本当な思想があるのを感じました。
岡:九九を中学二年くらいだった兄が宿題で繰り返し繰り返し唱えていた。私は一緒に寝ていて、眠いまま子守唄のように聞き流していたのです。ところがあくる日起きたら、九九を全部言えたのです。以来忘れたこともない。これほど記憶力が働いている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。
小林:そうですね、ものをおぼえるある時期には、なんの苦労もないのです。
岡:あの時期は、おぼえざるを得ないらしい。出会うものみなおぼえてしまうらしい
小林:昔は、その時期をねらって素読が行われた。だれでも苦もなく古典をおぼえてしまった。
(略)
論語を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により、年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させた教育だけがはっきりした教育です。わたしはここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。

幕末や明治大正昭和初期のひとたちの心に、なぜかグッとくることが多いです。
小林秀雄と大岡昇平の対談にもおもしろいのがあったので、少しだけ引用します。

大岡:ところで文学の研究家というのは不思議な存在だね。1つの筋を調べ始めると、そっちのほうばかりに頭がいっちゃうんだ。その筋に関係のある材料だけをひっぱってくる。
小林:人生を知らないものが、人生について知ったひとのことを研究しようとしているわけだ。これは無理だ。最初からもう逆の方向に走っている。それがどうしてうまい具合に行くか。不思議なことが。研究者が人為的に事柄を合わせるんだよ。
大岡:つじつまをな
小林:つじつまをあわせるんだな、これは困ったことなんだ。
大岡」だめだといっても、耳にはいらねえんだから
小林:ぼくは、とにかく人を説得することをやめて25年くらいになるな。人を説得することは、絶望だよ。ひとをほめることが、道がひらける唯一の土台だ。このごろ、ひとにはそれだけの道しかないように思ってるんだけども、なんでもいいから僕の好きなものは取る。ひとから取るの。そういう道はあるよ。だから説得をやめたということは、ひとに無関心になったわけじゃないんだ。取れるものは取ろうと思い出したんだよ。ずいぶん昔のことだけれど、サントブーヴの「我が毒」を読んだときに、黙殺することが第一であるという言葉にぶつかったが、それがあとになって分かったな。お前はだめだなんていくら論じたって無駄なことなんだよ。全然意味をなさないんだ。自然に黙殺できるようになるのが一番いいんじゃないかね。
(略)
小林:政宗白鳥さんの文章は、アランなんかの文章とたいへん似たところがあるよ。だけれどもアランというのは芸人でしょう。芸を誰が育てたかというと伝統なんだよ。哲学的伝統ですよね。日本ではこれが混乱した。その意味での知識人の孤独を私はよく考える。大岡だって、福田 恆存だって、大江健三郎だって、みんなそうだと思う。知的伝統の援助があてにできない辛さをみな持っている。磨きをかけているけれど、磨かれないものがいっぱい自分のなかにあるんだよ。それはなぜかというと、いかに自分を磨こうとしても環境が磨かせてくれないだろうが。たくさん隠れているんだよ、宝が。それは辛いね。

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