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病めるときも、健やかなるときも-前編(藤宮ニア)

【あらすじ】
感染症や疫病の流行を経て、人類が実体同士の接触を避けるようになった世界。
大金を積んでアバターを手に入れた人間は、たとえ荒れ果てたBエリアに住んでいても安心で安全なAのエリアに暮らす人間たちと交流することができるようになる。
みんなBエリアを捨てていった。友達や家族を捨てて、それまでの“世界”も実体をも捨てて、彼ら彼女らはみんな、変化を選んだ。
この体を捨てたとき、僕は一体誰になるのだろう。
【カテゴリ】#小説
【読了時間】17分
【著者プロフィール】
フリーランスで文筆家・PRライター・イベントディレクターとして活動しながら、社会課題解決に特化したPR/企画の会社morning after cutting my hairを設立。2018年に開催されたNovel Jam2018秋にてはじめての短編小説「リトルホーム、ラストサマー」を執筆し、花田菜々子賞を受賞。日本語をテーマにしたコラムの連載など、ペンネームと本名(中西須瑞化)を適当に使い分けながら活動中。

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 心臓の音が聞こえる。閉じた瞼の向こうに、光の気配がゆらゆらと揺れている。光の正体が何なのか確かめるよりも、今はただ、この存在を信じていたいと思った。

◆東B-1
「マオ、マオ」

 高い声に揺すられて目を開く。ぼやけた視界に、アサコが欠けた歯を覗かせてにんまり笑っているのが映った。

「なんだよ」

 目を擦るとヒリヒリとした痛痒さが増した。その辺の溜水で洗っても落ちない手の汚れは、元の皮膚の色を日に日に記憶の向こうに追いやって、硬く積み重なっていく。

「リオが昨日、アバターで結婚したって」
「えっ? リオが?」

 しまったと思うより前に、アサコの笑みが深くなる。僕のベッドに頬杖をついて、ニヤニヤと僕の方を仰いでいる姿が憎らしい。

「そ、一抜けたってやつ。寂しくなるよねぇ」

 アサコの声につられるようにしてリオの姿を思い浮かべる。ただ、僕はリオの姿を正確に思い浮かべることができているのかわからなかった。

「待てよ、リオは自分がBエリアの人間だって伝えてるのか?」
「さぁ。別にどっちでもいいんじゃない、アバター同士である限りはさ」
「いい訳ないだろ!」

 適当なアサコの反応に、いつもより大きな声が出た。簡易ポッド内にいた何人かが僕の方を見る。アサコも呆れたような目で僕を見てため息をついている。誰かが簡易ポッドを出る、ギィと軋んだ音が響いた。

「あのねぇマオ。リオがB-2の人間だってことを伝えてたとしてもいなかったとしても、そんなことどうだっていいじゃない。一緒に暮らすことも、セックスも、子どもを持つこともアバター同士でできるんだから問題ないでしょ」
「わかってるけど」
「わかってない。マオはちょっと変だよ」

 歯が欠けている場所を確かめるように、アサコが舌で歯列をなぞる。2年前に歯と髪を売ってアバターを買う金にしようとして、アサコは取引所との交渉に失敗した。取られるだけ取られてボロボロになって帰ってきたアサコを、一番に慰めに行ったのはリオだった。リオの結婚を、アサコは一体どんな風に感じているんだろう。

「もし、Aの人間がリオの身元を調べたりしたら?」

 僕の言葉に、空洞になった部分を舌でなぞっていたアサコが動きを止めて僕を見る。泥の染み付いた頬を指先で掻きながら、「さぁ、しらない」とだけ静かに答えた。

***

 リオが暮らしていた7番ポッドは、僕の暮らす3番ポッドよりもっと東の川跡近くに設置されていた。アサコに話を聞いたあと急いでポッドに向かってみたものの、やっぱりそこにはもうリオの姿はない。少し前までリオがいたはずのベッドの上には、すでに別の誰かが眠っていた。
 大金を積んでアバターを手に入れた人間は、たとえBエリアに住んでいてもAのエリアに暮らす人間たちと交流することができるようになる。僕たちと同じようにBエリアで生まれて、Bエリアで育ってきたはずのリオは、いつの間にかアバターを手に入れて、いつの間にか、僕らとは違うあっちの世界へと向かう準備を進めていたということだ。
 リオはこの荒れ果てた場所での暮らしから、安心で安全なAエリアへの“一抜け”をめざして動いていた。一体いつから。そんな不毛なことは、考えてもむなしいということはよくわかっている。こんなのはあちこちで聞くよくある話だ。それに、何よりも祝福するべき素晴らしいことなのだ。

「マオ、こんなところで何してんだ」
「タミさん」

 ヘルメットを抱えてポッドから出てきたタミさんにリオのことを聞きかけて、やっぱりやめておこうと口をつぐんだ。詮索したところで、今から僕がリオにできることなんて何もない。

「お前今日は果実生成の担当だろ?」

 タミさんが太い腕で扉を開く。袖から覗く腕の印は、Aエリアに侵入しようとして捕まったことのある人間につけられるものらしい。扉の外は騒がしく、光が強い。今日はいつもよりも暑くなりそうだ。崩れていない地下道はあといくつあっただろう。

「タミさん、一緒に工場まで行ってもいいですか?」

 片眉を持ち上げて、仕方がねぇなという風にタミさんがヘルメットを差し出す。受け取りながら、錆だらけのモーター音を耳に、硬いシートに跨がった。僕は今日も明日も、この場所でずっと、人間たちが食べるものを生成して生きていく。
 全てを覆うけたたましいエンジン音を聞きながら、アバターによる自由で平等な世界を手に入れたリオのことを思い浮かべた。

◇京A-1
 透明な薄膜に包まれて、ふわふわとあたたかなところで揺れている夢を見た。ゆっくりと浮上する意識に、琥珀のような光が溶けて甘い香りを漂わせる。

「あら、ナギ、ちょうどいいところで目が覚めたのね。今日は特別に本物のケーキを作ってもらったの。ちょっと手伝ってちょうだい」

 ソファに沈んでいた体を起こすと、見慣れた室内に見慣れないケーキがたたずんでいた。お母さんはことあるごとにこういう「本物」を使った贅沢をするのを好む。

「……生成されたケーキの方が美味しいと思うけどな、私」
「馬鹿ねぇ、本物は高級品なんだから」

 あくびをしながら近づけば、確かに生成されたケーキとは少し違う、甘すぎるような強い香りがした。お母さんの手元で切り分けられるそのケーキが、いつも目にしているものと何が違っているのかはいまいちわからない。

「本物なんて劣化品だよ。生成されたものの方が絶対に美味しいんだし……」

 ぽろりと欠け落ちた一部を眺めながらそう呟く。お母さんは何も答えずにケーキを切り分けて、生成品の中で一級品の紅茶をカップに注いだ。
 お母さんは実愛主義者として、お兄ちゃんと私をこの家で育てた。アバター結婚だけで一生を過ごす人も多い中で、私の両親はどうしてもお互いの身体性を欲し、『融婚』を選んだのだという。

「お母さんはさぁ、どうして融婚したの。グロいよ、融婚なんて」

 ケーキの皿をテーブルに運びながら、これまでも何度か聞いたことのあるそれをまた尋ねる。お母さんはコロコロと笑った。

「神聖なことじゃない。本物同士のすべてを愛し合うんだから」

 実愛主義の人たちはいつも、「本物」を「神聖なもの」だと言う。それって本当にそうなのか、私にはよくわからない。

 感染症や疫病の流行を経て、人類は次第に実体同士の接触を避けるようになった。今ではこのAエリアでは、ほぼ全ての人たちがアバターの中で交流し、生活し、結婚も育児も実体ではなくアバターの世界でおこなうようになっている。家族でも実体同士を接触させる暮らし方は珍しく、私の家のような暮らし方は『融婚』を経てからでないと認められていない。

 安全性の面も考慮してアバター結婚が圧倒的に主流になっている今でも、「アバター結婚なんて」とお母さんは言う。今回の結婚も認めてはいるけれど、お兄ちゃんにもいつかは融婚を目指してほしいと思っているらしい。

「実愛主義が悪いとは思わないけどさぁ……なんか矛盾してない?」

 なんか汚いし、と呟く私に、お母さんはゆっくりと瞬きをして微笑んだ。私たちがどんなに異を唱えたとしても、融婚は実愛主義の究極で、お母さんはそれを経てこうして実体同士で暮らしていることを誇りに感じているのだと思う。
 融婚は審査や条件も厳しいからか、一部の人たちからは憧れの対象になっている。アバター結婚を経てもどうしても実体性を欲する場合にのみ、その権利が与えられる特別な愛の証明。
 本物のケーキを眺めながら融婚について考えていると、お母さんが笑って紅茶のカップを差し出してきた。生成品の紅茶だけれど、これだって十分に良い匂いがする。

「また難しい顔して。ナギは、母さんや兄さんと離れて、アバターだけで家族になりながら個人カプセルで暮らす方がよかった?」

 問いかけに、私はいつも答えられない。うーんと唸って考えながらカップを持とうとしたら、少しだけ紅茶をテーブルにこぼしてしまった。

「お母さんはすっごく幸せ。こうして家族がみんな、一緒にいられるんだから」

 お兄ちゃんからアバターメッセージが届く。今日のお嫁さんとの顔合わせは、アバター上でおこなわれるのだ。

◆東B-2 
今日の最後の生成と出荷を終えた帰り道、まばらな電灯の下を歩きながらリオのことを考えていた。リオはどんなアバターで、どんな人と出会って、どんな結婚をするのだろう。今はどこで、どんな風に暮らしているのだろう。感染症や疫病の心配もない、清潔で平和な場所に行けたのだろうか。もしもそうなのだとすれば、きっとリオは幸せになるだろう。そんな風に信じなければ、言い聞かせなければ、なぜだかやっていられないという気分だった。

「ねぇ、君」

 声をかけられて、一瞬誰のことだか分からずに通り過ぎそうになる。絶妙なタイミングで、その声の主はもう一度「ねぇ」とはっきり声をかけてきた。
 白い髪に小さな背。老人かと思えば、顔立ちは僕と同じかもう少し若いくらいのおかしな青年だ。

「君、いい色の目だね」

 暗がりに佇む姿も、静止して動かない姿勢も、淡々とした声に反したにこやからしい表情も、全てが間違えてパーツを作られてしまった何かのように歪だった。逃げた方がいいのではないかと思うのに、逃げる場所がどこにあるのだろうという気にもさせられる。何も答えられずにいると、青年が続けて口を開いた。

「透き通ったアンバーの瞳がいるって聞いたんだ。珍しいんだよ、それ。高く買うから、僕に譲ってくれないかい?」

 相手の左目が窪んでいることに気づく。本気か冗談か分からずに、ただ気味が悪いなと青年を見据えていれば、不意に青年が小刻みに揺れる。笑っているらしい。

「君、アバターが欲しいんだろ?」

 ぞわりと背筋を這う冷たさは、青年の歪んだ笑みの不気味さと、彼の口から発せられる言葉の熱さによるものだと思った。心臓がおかしなリズムを刻みそうになって、僕の真ん中で懸命に保とうとしているのがわかる。

「そんなの、ここじゃみんな欲しいと思ってるよ」

 何も特別なことじゃない。そんな風にあしらうつもりで声を絞った。青年はまた可笑しそうにニタリと笑って、歪んだ口元から錆びた銀のような歯を覗かせる。

「違う違う。君は特に、キョーレツに欲しいと思ってる。今このエリアにいる人間の中で一番、欲望の濃度が高いじゃないか」

 喉を鳴らす物言いに彼を睨みつけると、青年の右の目が一瞬ぬらりと光った。血走って充血したような赤は、薄暗がりの中で奇妙な存在感を放つ。
 前に、アサコが熱心に調べていた闇取引の連中のことを思い出した。Bエリアにはいくつかのグループがあって、それぞれに特徴があるらしい。きっと眼前の青年もまた、そうしたグループの中の一人なのだろう。仮に本当にアバターを手に入れることができるとしても、与えられるアバターIDが正規品とは限らない。そもそも、目をくれだなんていう提案に乗るのも頭がおかしい。さっきからずっと、そんな否定の意見が頭の中に渦巻いている。

「3秒から5秒」
「え?」
「3秒から5秒で、人間は相手の第一印象を決めるんだ」

 青年がゆっくりと足を踏み出す。間隔を保つように一歩後退するか迷っている間に、彼が囁いた。

「君はもうとっくに僕を受け入れようと決めている。……大丈夫。アバターが手に入れば肉体に意味なんてなくなるよ」

 アサコはこの男に身を委ねようとして失敗したのだろうか。リオはどんな奴に身を委ねたのだろうか。きっと逃げた方がいいんだ。そう思いながらも、なぜか体が動かない。
 僕は何になりたかったんだっけ。
 どこでどうやって何をしていたら、僕は幸せになれたんだろう。
 青年が何かを呟いた。それは聞いたこともない言葉のようにも、何かの呪いのようにも、ただの音のようにも響くただの記号だった。耳鳴りがする。リオは元気だろうか。アサコは、いつも通りに眠っただろうか。

◇京A-2
「お嫁さん物静かそうな人だったね。綺麗だし、お兄ちゃんにはもったいないんじゃない?」

 通信をオフにしながら隣を見ると、お母さんは早速誰かにメッセージを送っているようだった。息子の結婚というものには、私には想像もつかない喜びがあったりするのかもしれない。

「何送ってるの?」
「IDよ」
「誰の?」
「あのリオさんって人の」
「は? ……え、何で」

 微妙な沈黙。どうして、ともう一度聞いてしまいそうになるより先に、お母さんはふと手を止めて浅く息を吸い込んだ。

「だって、変なものを食べることになったら嫌でしょう?」

 お母さんは、私の疑問符を丁寧に丁寧に包んで送り返すように優しく笑った。小さい頃、中身が気になってこっそり開けて、元には戻せなくなってしまった綺麗な包みがあったことを思い出す。

「さ、ナギ。乾く前に食べちゃいなさい」

 本物のケーキが乗ったお皿を持って、お母さんは笑っていた。「お母さんも食べよっと」と、ケーキにフォークを刺す。ぽろぽろと崩れるように欠片が落ちるのは、本物特有のそれだった。
 小さい頃から何度も何度も、お母さんは私たち兄妹に融婚の素晴らしさを教えてくれた。
 お父さんの実体と初めて会った時は、アバターとの違いにすごく驚いたということ。それは向こうも同じだったみたいで、二人してぎこちなくなりながらぽつぽつと喋ったということ。見た目は別人でも、仕草や言葉遣いがやっぱり同じで、話すうちにちゃんとお互いを感じられるようになったということ。初めて実体で手を繋いだ時は、お父さんの手が少し汗ばんでいて驚いたということ。皮膚はざらついていて、アバター同士の時よりも触り心地は良くないと思ったということ。アバター同士の接触のリアルと実体のリアルには、言葉では言い表せない違いがあると感じたのだということ。
 お父さんとのことを語るお母さんは、いつも幸せそうだった。だからきっと、融婚も悪いものではないんだろうとは思う。
 お母さんが赤いイチゴを齧って上機嫌に目を瞑る。「やっぱり本物は違うね」と嬉しそうに笑う唇から、私は少しのあいだ目が離せなかった。

***

「お兄ちゃん、リオさんと融婚する気ある?」
「いやー、べつに興味ないかな。アバターで十分だし」

 お兄ちゃんがストローを回すと、からんと氷の涼やかな音が鳴る。アバター同士でもこうやって普通に会ってお茶をすることができる世の中で、わざわざ実体同士で会おうと考える人はやっぱり少ない。融婚の審査条件が厳しいといった理由もあるけれど、単純にメリットを想像しにくいというのもあるんじゃないかと思う。
 そうだよねぇ、とぼんやりした相槌を打って、お兄ちゃんがくるくると弄んでいるストローを眺める。昔はこのストローだって、実体社会の中で死ぬほど量産されていて、プラスチックで作るのはよくないとか色々問題もあったらしい。一時はたくさんの政策をもって世界中が環境の改善にとりくもうとしていたって、この前の講義で先生が言っていた。

「母さん何か言ってた?」

 アイスコーヒーを飲みかけて、お兄ちゃんが香りと味の調整をする。苦味と酸味を下げて甘みを上げるのがお兄ちゃんの好みで、よくわからないけれど一応こだわりポイントがあるらしい。何度かゲージを上げ下げして、ようやく一口目を吸い込む。

「うーん……多分、融婚するものだって思ってるんだと思う。リオさんがどこの人かとか、結構知りたいみたい」

 呆れたという顔でお兄ちゃんがため息をつく。私も手元のゲージを調整して、少し濃さを増したコーヒーを飲んだ。私を横目に、お兄ちゃんがぼんやりと口を開く。

「別にどこの誰かとか、関係ないと思うんだよな」

 少しだけ追加でゲージを調整して、苦味と酸味を足す。まろやかさのゲージを上げて飲んでみると、ぐっと美味しくなった。

「リオはリオだしさ。俺はリオだから好きになったんであって」

 わざわざ実体の存在を欲しいとは思わない。そういうお兄ちゃんの感覚も、確かによくわかる。

「喋る言葉とか、意思とか。アバターは実体じゃないっていう人もいるけど、だけど俺たちはここで生きてるし。こうやって誰かとお茶も飲んで、喧嘩したり笑ったりして、友達も上司も恋人も、働く場所も社会も全部こっちにある。だったらもうこっちが本物でいいじゃんって」

 好みの味になったコーヒーを啜って、お兄ちゃんが頼んでくれたマフィンを一口齧った。

「私も、本物の良さってよくわかんない。お母さんはすごく大事にしてるけど、ケーキだって生成品の方が綺麗でいいじゃんって思うし」
「あー、なんか歪なんだよなぁ、本物って」
「だよね。切ったらすぐに崩れちゃうし、味もバラバラだし」

 その不揃いや不安定がいいんだっていう人もいて、特にお金持ちの人には愛好家も多いと聞くけれど。友達から「いいなぁ」って言われても、私たち兄妹はやっぱり、その良さや貴重さをいまいち理解できないままでいた。

「リオさんってどんな人なの?」

 私の質問にお兄ちゃんが苦笑いをする。「なんだよその質問」と笑いながらも、リオさんのことを思い起こす表情はどことなく満足げな、うっとりとしたようなものだった。

「いい子だよ、すごく。優しいし、上品で。お喋りじゃないところもいい。控えめだけど、何となく芯が強いんじゃないかって気がするんだ。きっと色んなことを乗り越えてきた強い女性だよ、リオは」

 食事会でも、上品で優しそうな人という印象だった。実体がどんな人なのかということをお母さんは気にしていたけれど、やっぱり私も、そんなのはどうだっていいことなんじゃないのかなと思う。

「惚れてるんだねぇ」

 ニヤニヤしながら言ってみると、予想外にあっさりと「そうだよ」と返ってきた。肩透かしを食らったような気分でお兄ちゃんを見て、その横顔に、私の知らない男の人の表情が浮かんでいるのに気づいた。甘いコーヒーしか飲めないくせに、と心の中で思って、だけど今は、言葉にするのはやめてあげておくことにした。

◆東京-1
「……ここは……?」

 何の匂いもしない白い空間。発光しているのか靄が出ているのか、とにかく白に囲まれた空間に目が眩むような感じがする。白髪の青年の姿は見えない。ハッとして手を遣った顔面に、今のところ空洞はできていないようだった。

「ID5988841-BXYのユーザー登録を開始します」
 自動音声なのか、無機質な声が響く。僕はどうやってこの空間に来たのだろう。思い出そうとしている間に、眼前にモニターのようなものが表示された。

「……アバター登録……?」

 まさかと室内を見渡しても、やっぱりあの青年の姿はない。一体どういうことなのだろう。再び、同じ無機質な声が空間に響く。

「これ、登録したら目を抉られるってわけじゃないよな……?」

 それはあまりにも、想像しただけでも相当グロい。自分の目のことなんて意識をしたこともなかったけれど、そういえばアサコだけはよく褒めてくれていたなと思い出す。まさかそれがこんなことになるなんて、アサコだって夢にも思っていなかっただろうけど。

「センサー位置に合わせて全身を投影してください」

 無機質な声のアナウンスが繰り返される。空間を見渡した限りでは、出口らしき扉は見えない。モニター上にキャンセルの文字は無かった。

「センサー位置に合わせて全身を投影してください」

 僕が今アバター登録を迷っている理由は何だろう。
 目を奪われるのではないかという恐怖。得体の知れない違法そうな行為への躊躇。アサコへの申し訳なさ。リオへの嫉妬。
 違う。

「ID5988841-BXYのユーザー登録を開始します」

 自動音声なのか、無機質な声が響く。僕はどうやってこの空間に来たのだろう。思い出そうとしている間に、眼前にモニターのようなものが表示された。
 僕は多分、僕の生きてきた当たり前の世界が変わってしまうことを恐れている。
 アバターが本当に手に入るなら、実体なんてもう関係がないという人もいる。アバター上で金を稼ぐことに成功してポッドから出ていった人もいれば、リオのように結婚を決めて場所を移る者もいる。Aエリアの人間と結婚することが知られれば、僕らの住むエリアでは安全に暮らすことは難しい。
 あそこからいなくなる人間たちは、みんなBエリアを捨てていった。友達や家族を捨てて、それまでの“世界”も実体をも捨てて、彼ら彼女らはみんな、変化を選んだ。
 この体を捨てたとき、僕は一体誰になるのだろう。
 手が震える。リオはアバターを手に入れる時、こんな風に震えたりしたんだろうか。アサコだったら、迷うことなくすぐにアバター登録を済ませるだろうか。
 何もない空間で、僕の心臓の音を聞いた。
 目を閉じて呼吸を整える。それからそっと、センサーが示す位置に立ち、モニターに全身を投影させる。

「モニターを真っ直ぐに見つめて静止してください。ID5988841-BXYのアバター登録をおこなっています。しばらくそのままでお待ちください」

 アバターを手に入れたことをアサコやタミさんに言ったらどうなるだろう。アバター上でリオに会うことはできるのだろうか。そんなことを考えている間に、ピンと高い音が鳴って壁に一瞬緑色の光が走った。

「ID5988841-BXYのアバター登録が完了しました。アバターのカスタマイズをおこなってください」

 無意識に詰めていた息を吐き出す。目はまだ無事だ。
 表示されるタッチパネルに従って、アバターを作っていくという仕組みらしい。髪の色、目の色、肌の色、体型に顔立ちと、選択するごとに少しずつ人間の形が出来上がっていく。
 変えられるのは主にフォルムの部分らしかった。声の高さも微妙にカスタマイズができる。実際の性別登録はどこかにあるのだろうけれど、見た目に関しては自由にカスタマイズができるらしい。実体の性別から解き放たれるためにアバターを作る人もいると聞いていたけれど、確かにこれなら自分の理想を作ることもできるのかもしれない。とびきりイケメンにしてみようかとも一瞬思ったけれど、やっぱりなんだか恥ずかしくて、なるべく自分に近いようなフォルムを選んだ。

「アバターネームを入力してください」
「名前?」

 アバターと実体が違う名前になることもあるだなんて知らなかった。普通はどんな名前を使うんだろう。少し迷って、スペルを入力する。
 Asako Mao
 偽名を名乗っていたとしても、これならリオが気づいてくれるんじゃないかと思った。登録のボタンをタップすれば、情報の確認画面が現れる。

「……アバター使用中の実体の安全は保証されません、か」

 恐ろしいなとも思ったけれど、多くの場合は個人カプセルの中で使用するのが前提なのだろう。Bのエリアの人間はこういった面でも、アバターを手に入れるということが難しい。
 了承のボタンに触れると、不意に頭の中に響くように声がした。

「契約成立だ。それじゃあ、君の体はボクが借りるよ」
「! お前」
「こっちのことは忘れて、アバターの世界を楽しんでおいで。今日から君は実体を捨てて、Asako Maoという記号になる」
「おい、お前どこに……ッ」

 目が眩む光。甘く、嗅いだこともない、柔らかな匂いが満ちていく。
 遠のく意識の中で、青年の声が囁いた。

「いってらっしゃい、マオ」

◇東京-2
「えー、現在皆さんが口にする食品のうち、最も高級な嗜好品はいわゆる『本物』と呼ばれるトゥルースフードであるわけですが、実際これらは過去にはごく一般の大衆的食物として流通していたわけです。それがなぜ今に残らなかったのかというと、やはり環境や生物多様性のバランス崩壊、気候変動によるものが大きいというのが地球環境愛護派の意見になるわけですが……えー、実際の変遷としましてはこれは単なる技術革新による最適化と効率化であるという見解が主流ではあり……」

 歴史の講義なんて一番面白くない。過去を振り返るより未来を考える方がずっと楽しいに決まっているのに、どうして人間はこんなに無駄なことに時間を使おうとするんだろう。そもそもこういう情報の蓄積は、少し調べたらすぐにわかることだ。
 先生のいう「えー」をカウントしながら欠伸を殺しもせずに聞き流していると、アバターメッセージの通知がきた。お兄ちゃんからだ。

『リオが最近変で』
『浮気してるんじゃないかと』
「……は?」

 我が兄ながら情けないなと思いつつメッセージを追う。あのリオさんが浮気だなんてと返そうとしていると、その前に続けてメッセージがきた。

『リオはこっちの生まれじゃないのかもしれない』
『疑い始めたらキリがなくて』
『アバター同士の関係でいいって思ってたけど、知れば知るほど、リオが誰なのかわからなくなる』

 点滅する最新メッセージを眺めながら、これが噂に聞くマリッジブルーか、と思った。婚約も済ませて一緒に暮らし始めて数ヶ月経つタイミングだから、もしかすると少し遅いマリッジブルーなのかもしれないけれど。
 何かを返す前にまたメッセージが届く。

『融婚を考えてもいいのかもしれない』

 たった数ヶ月での変わりように引きながら、それでもお母さんはきっと喜ぶだろうとぼんやり思った。先生が言う「えー」の回数を刻んでいた手を止めて、メッセージを返す。

『融婚の前に事実確認じゃないの?』
『リオさんと話し合ったらいいじゃん、夫婦になるんだから』

 返事はなかった。バカ兄貴。だからモテないんだよと心の中で悪態をつきながら、果たしてリオさんが本当に浮気なんてするだろうかと考える。

「こっちの生まれじゃない、か……」

 もしもそれが本当なら、お母さんは融婚を認めるだろうか。綺麗で物静かで、感じの良い人だったリオさん。それがアバター上だけの姿だったとしても、それでも幸せになれるに違いないと確信を抱いていた数ヶ月前のお兄ちゃん。
 Bエリアのことを、私は学校で習う程度にしか知らない。文化論の授業で現地視察に行きたい希望者を募っていたこともあったけれど、実体での移動に不安を抱えない生徒なんてのは本当に少ない。結局一人か二人の熱心な文化論好きが現地視察に行ったらしいけれど、精神的ショックを受けて学校に顔を出さなくなったという噂が流れている。
 実体だらけの社会。アバターと違って歪な造形をした人間たちがあちこちに生活をしている空間。アバターを持たずに生活する人たちは、一体どんな感覚で生きているのだろう。

「あの」

 講義終わりに部屋を出ようとする手前で声をかけられた。振り返ると、多分知らない男の子。

「もし良かったらなんだけど、少し話せませんか」
「……は?」
「さっき、メモ取ってるみたいだったから」

 一瞬意味がわからなくてぽかんとしてしまう。素朴な感じの見た目だけれど、なぜか妙に落ち着きのある不思議な子だった。

「私、メモなんか取ってないけど」
「あれ? でもさっき、ずっと手が動いてたよ」

 今度は彼がぽかんとして私を見る。途端に雰囲気の変わるその顔がおかしくて、思わず少しだけ笑ってしまった。

「先生の口癖数えてたの。『えー』ってめちゃくちゃ言うでしょ、あの人」

 彼は不思議そうに私を見つめてから、ふはりと息を吐くようにして笑った。

「なんだ、てっきり真面目にメモしてるのかと。僕、途中から追いつけなくなったから、教えてもらえおうかと思ったんだ」
「何それ。ナンパかと思った」
「えっ、違うよ!」
「冗談。ていうか録画あるでしょ、再生し直したら?」
「え?」
「え?」

 ぱちくりと瞬く表情が意外で、思わず鸚鵡返しで彼を見る。謎の沈黙のあと、彼が口を開いた。

「……ごめん、やり方……教わってもいいかな」

 苦笑いが、少しお兄ちゃんに似ていた。さっきのメッセージを思い出しながら、「別にいいけど」と答えて彼のアバターネームを見る。

「Asako Mao……なんて呼んだらいい?」
「マオでいいよ。君は……」
「ナギ。カフェでも行く?」

 次の講義が始まる前にとドアを抜けようとすると、マオが不意に手を差し出す。

「よろしく、ナギ」
「……レトロカルチャー愛好家?」
「え、違うと思うけど、なんで?」
「握手しようなんて人、政治家とレトラー以外にそういないよ。変なの」

 マオがまた苦笑いをする。差し出した手を引っ込めようとするのを見て、なんとなく、その手を軽く握ってあげた。

「でも、マオがしたいならしたらいいと思う。よろしくね」

 アバター同士の握手でも十分に体温を感じる。滑らかな肌の質感だってわかる。苦笑いを引っ込めたマオは、また素朴で不思議な感じで笑っていた。

「マオ、再生の仕方も知らないでどうやって生きてきたの? やっぱレトラーでしょ」
「違うよ。何ていうか……最低限の機能があればいいやってタイプで」
「最低限の内でしょ、録画再生。勉強できないじゃん」
「だからノートを」
「……は? え、待って。ノートってマジでノート書いてるの?」
「? そうだけど」
「マジ? 見せてよ」

 カフェラテどころじゃなくなった。変な子、とマオを見ながら催促してみると、本当にノートとペンを持ち出してくる。アバター上じゃもちろん、実体の世界でさえ、今はもうほとんどが電子化されたり自動化されたりしているのに。

「すっご。なんで自動筆記にしないの?」
「自動筆記? そんなのあるんだ、すごいね」
「はぁ? あんた一体どこからタイムスリップしてきたの……」

 もしくは実体がおじいちゃんとか、と考えかけてやめた。もし本当にそうだったとしても、マオは今目の前にいる男の子だ。紅茶のティーカップを傾ける姿はどこからどう見ても同じ歳くらいの男の子。

「歴史の講義なんてつまんないのに、よくこんな真面目に勉強できるね」

 パラパラとノートを捲る。綺麗とは言えないけれど、熱心な筆致が並んでいた。フォントじゃない文字。均整のとれていない記号。

「面白いよ、すごく。知らないことばっかりで驚く」
「ふーん。けど、昔のことなんて調べたらすぐ出てくるのに」
「確かにね。だけど多分、僕は人から聞きたいんだと思う。アバターであっても、それに情熱を持っている誰かの口からこの世界のことを学びたい」
「先生が全部コンピュータでも?」

 マオが目を見開いて私を見る。その顔がおかしくて、堪えきれなくなって思わず笑った。

「なんだよ! 嘘?」
「あはは、お腹痛い」
「もー、びっくりしたぁ」

 アバターでも笑うとお腹が痛くなるし、涙も出る。目尻を拭いながらカフェラテを一口飲んだ。ちょっと甘さが強い。

「でもそういう噂もあるんだよ。私たちも本当のことはわかんない」
「いやいや。コンピュータとかがやるならさっきの『えー』なんて絶対採用しない」
「わかんないよ、あれが人間らしさのプログラムなのかも」
「ないね」
「ないかぁ」

 先に吹き出したのがどっちだったかはわからないけれど、私たちはなぜだか二人して笑った。カフェラテから甘みを引くか迷う。今日は少し、甘めでもいいのかもしれないと思った。

「出ないの?」

 僕のことは気にしなくていいよというニュアンスでマオが言ってくれたのをきっかけに、さっきから気づいてはいたコールの点滅に目を向ける。着信の相手はお兄ちゃんだった。

「あー、ううん。いいや、お兄ちゃんだし」
「お兄さん、何か用事?」
「多分ね、結婚の……ていうかあのー、融婚のことだと思うから。あとでかけ直す」
「ゆうこん?」

 さっきと同じように疑問符を浮かべるマオの瞳の奥が、さっきよりも少しだけ重く光った。レトラーならむしろ歓迎しそうな要素なのにと思いながら、「うん」と頷く。

「結婚、じゃなくて?」
「そうだよ。私のお母さん実愛主義で、うちも融婚家庭なの。お兄ちゃんが最近結婚したんだけど、その人と融婚するかどうか迷ってるんだって」

 なるべく何でもないことのように、初めて見たという反応をされた時のいつもの返答と変わらないように。淡々と堂々と、怯えて冷たくなっているように聞こえない普通の声で喋った。怒っているように聞こえても、つっぱねているように聞こえてしまっても嫌だ。私にとって当たり前なのだから、何も特別視はしていないというような態度を、私はできるだけ慎重に作り込もうとしていた。
 実愛主義について話すのは慣れていたはずなのに、なぜだかマオにこの話をするのは少し嫌だと思った。カフェラテに甘みを足して飲む。やっぱり甘すぎたから、ゲージを少しだけ下げた。

「ナギは……融婚についてどう思ってるの?」

 マオの声は落ち着いていた。恐る恐るというわけではなく、私に向けて純粋に問うているという感じだった。カフェラテのゲージに向けていた視線をマオに向ける。マオはちょうど紅茶のカップを持ち上げているところだった。つられるように、私もカフェラテのストローに目を戻す。

「……わかんない。お母さんはすごく神聖なことだって言うし、一緒にいるんだから幸せだって言うけど、やっぱりちょっとグロいよ」
「グロい?」

「うん。大切な人の身体を喰べて、ひとつになることで“一緒に”暮らせるようになるなんて」

 甘みを下げたカフェラテは、それでもきちんとした味がする。

「マオ?」

 無言の時間が気まずくて、聞いてた?と中途半端に笑いながら視線を移す。マオはこっちを見ていた。ただ真っ直ぐに私を見るように、だけど私ではない何かを見据えているようにも見える瞳で、こっちを見ていた。

「マオ……?」

 窺うように名前を呼べば、口元だけを緩めて、ぎこちなく笑う。

「いや、確かに……ちょっと、変わってるよね……」

 瞳が小さく震えたように見えた。「そうだよね」と私が返そうとするのと同時に、マオが滅茶苦茶に紅茶のゲージを操作する。

「わ、ちょっと何してるのそれ」

 中身は真っ赤に染まっていた。構いもせずに、マオはそのカップを片手で掴んでぐいと飲み干す。
 上下する喉と、半分だけ覗く唇。
 濡れた赤を眺めながら、リオさんとの顔合わせの日、お母さんが齧っていた本物の真っ赤なイチゴを思い出していた。

(続く)

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