
遊びはどこへ
面接で一番の特技を訊かれて「丸踏みです」と答えたことがある。丸踏みを知らない世代にむけて補足すると、それはほとんど缶蹴りと同じだ。ぼくの答えはどこか場違いな異国の言葉のように響き、時間はしばし進むのをためらったみたいだった。あたりまえだ。子供の遊びほど社会の中で役に立たないものはないのだから。
スポーツが得意な子は中高にあがっても力を発揮する機会を持つことができる。勉強が得意な子にもまたそれぞれに活躍の場がある。けれど、遊びは行き止まりだ。遊びが得意なだけの子は、何にもなれない。
遊びはどこへ消えていくのだろう。それは、本当に失っていいものなのだろうか。
子供の遊びは大人のそれとは決定的に違う。大人の遊びには休息だとか気晴らしだとか、そうでなくても「楽しもう」という目的があって、頭の片隅には仕事や生活のことがいつもこびりついて残っている。けれど子供は目的もなくひたすらに、生きることが遊ぶことであるように遊ぶ。生涯のほんの一時期だけ、人はそういう世界を生きるのだ。
ぼくはその頃に本物の自由に触れられた気がする。それは保護された小さな世界にすぎなかった。強いられたこともたくさんあった。けれど行けるところも為せることも少なかったあの時代、仲間と駆けた一丁目や二丁目は全世界に等しい広さがあるように感じられた。
だからだろうか。子供時代を失わなければ生きていけない社会というのは、ぼくにはなにか根本的に間違っているように感じられてならなかった。
語られる子供時代はいつだって弱い立場にある。語る人間は大人であって、すでに子供ではないからだ。それは、夢が目覚めた後でしか語られないこととよく似ていた。夢を見る時はまさにそれこそが触れている世界なのに、語られる夢はいつだって夢の力や論理の及ばない世界から評価される。
それは教育では見向きもされない。それは政治にもならない。
それは――。
それは置き去りにされる。
悲しいことに現代の人の成長は、子供時代の継承ではなく、むしろ子供時代からの追放として起こっている。
あの頃の仲間たちも、そしてぼく自身も、ある時を境に将来に向かって行動をおこし、ばらばらに挫折したり自分を納得させたりした。「希望」や「目標」といいながら、なした努力と同じ分だけぼくたちは深い溝に隔てられていった。
かわりにぼくたちの多くは異性を意識するようになった。けれどそれは多くの仲間と世界を共有するのとは違い、恋愛へ、やがて家庭へと、男女、男女で細かく振り分けられていくことに近かった。異性に輝きを見ていたのは間違いない。けれど振り分けられて囲い込まれて、それは二度と子供の頃のような広大な世界を持つことができない道でもあるのだった。
子供は成長するにつれて次第にできることを増やしていく。遠くに出かけて多くを手にし、多くに出会うようになる。けれど立ち止まって空を仰ぐとき、ふと世界が狭く苦しくなったような気持が浮かんできてしまうのを止められない。
あの日と同じ青空を見ても、それは同じ青空には見えてこない。世界の感じ方が変化して、大人になるとあの無限のような時間を持つこともたぶんもうできない。時間が流れるほど世界は損傷し、視野は実感を失ってくすんでいく。それは、政治とは違うことのように思われるかもしれない。けれどそのようにしているのもまた、まちがいなく社会だ。
人生が断絶しており、過去を未来へうまく継承することができないがゆえに歳をとっていくことへの積極的な価値が見いだせない。これは未来へ進むしかないぼくたちにとって恐るべきことであるように思えた。子供の頃の広大な世界に勝る何を得ることができるのかとぼくは問いたかった。
「いちばん青い青空を見る方法を知っているか――」
小学六年の春に友達が言っていたことをぼくは今でもときどき実践する。普通の青空じゃない、ものすごく濃い青空を見る方法。
晴れた日に目をつぶったまま太陽の方を見ると、まぶたが光を透過してオレンジ色が浮かび上がる。だからまた目を開けた時、その反動で視界は驚くほど青くなった。
この現実の青と錯覚の青を合わせた天頂の空は涙が浮かんでしまうほど綺麗だ。錯覚。けれど色は本当はそういうふうにして見られているのではなかったか。もしも色がすべて光の波長に還元されるのなら、どうしてぼくたちは夢の中でも青空を見るのだろう。
人間はもっと広い世界を自由に生きることができるように思う。何年かに一度、目覚めて呆然とするようなとてつもない憧れを夢の中におぼえるのは、子供の頃に一度はその気配に触れたからだ。
子供の世界は失われることが運命づけられた世界だ。この社会は子供の感性を失わないと生きられない。逆に生きることで感性はそぎ落とされてしまう。その悲しい事実を変えていくことが政治を変えていくことと重なって見えてくる。
過去を失ったのなら、あとは未来を手に入れるしかない。一人一人が持っているなつかしい子供の視野、記憶。そこで出会ったものたちや、あげた歓声、一つ一つの手ごたえ。そういうものを再び全世界的に回復させることを望む。
それは遠い未来まで成し遂げられないかもしれない夢だけれど、ぼくたち人間は成し遂げられないかもしれない夢に向かって生きていくこともできるのだ。
2021.04.02 三春充希
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