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「今」を歴史の転換点にしよう

 今度の衆議院選挙では、新型コロナウイルスをめぐり、医療や経済が争点にのぼるでしょう。しかしそれだけではありません。首相の虚偽答弁や公文書の改竄が発覚してから初めての衆院選にもあたるのです。政府統計の不正が露見してから初めての衆院選でもあります。ですからそれは過去の選挙に輪をかけて重要となるもので、これまで損なわれてきた社会のあり方や、倫理、道理といったものを前にして、私たちに何ができるのかが問われることになるはずです。また、そうしたことをきちんと問えなければ、与野党の勝敗のいかんにかかわらず、今度の選挙は敗北と言わざるを得なくなるのでしょう。

 新型コロナはこの一年を通して次の二点を浮き彫りにしてきました。それはすなわち、政府の問題解決能力のなさと、国民軽視の姿勢にほかなりません。

 もともと私たちの社会には、感染症ばかりでなく様々な問題が生起します。それは地震や台風などの短期的なものから、少子高齢化や地方の過疎化など長期的なものまでさまざまです。そうしたものに直面したとき、政府は起きている問題を正しく把握し、お金と人を動かして国民の生活を守る必要があるはずです。それにもかかわらず、新型コロナが明らかにしたのは、適切な検査の拡充や医療体制の構築がままならず、先進国として疑問符のつく対応しかできない政府の姿でした。

 もちろん、どんな社会にも限られた力しかないのですから、とりうる選択が限られるということはおこるでしょう。しかしそのような状況下でこそ、どのように生活を守り、支えていくかということに共同体の真価が問われます。たとえば戦後、主権が回復して間もなかった厳しい時代でも、狩野川台風や伊勢湾台風で被害を出した際、政府はダムを作り、堤防を作り、国民の安全を守ろうとして力を尽くしました。またそうであってこそ、国は自分たちのために働いてくれるのだ、生活はよくなっていくのだという実感が生まれ、共同体への信頼が作られていくわけです。

 けれども今の日本を見渡してみればどうでしょうか。政府は国民の命を危険にさらして開き直っている状態です。こんなことを続けていれば、国民の側も政府への信頼をなくしていきますし、また、国民を大事にしない国を果たして誰が大事にするのかと考えていくと、今の政府のあり方は保守の土壌を損なっていることが明らかです。

 政府の問題解決のなさ、国民軽視の姿勢、その結果としての保守の衰退は、今回の新型コロナに限ったことではありません。もっと長い目で見るならば、30年間も平均賃金が上がらなかったこと、正社員の非正規化が進められていったこと、それを自己責任として切り捨ててきたこと、消費税が引き上げられてポケットの千円札が事実上ほぼ「九百円札」になったこと、実質値上げで個包装のお菓子までが小さくなっていったこと……そうした一つ一つの現実が、「生活が豊かになっていない」「自分たちは大事にされていない」という実感となって、保守の根底を吹き飛ばしてしまったというわけです。

 諸外国の脅威を煽ったり、中韓への反感をかき立てたりする、また歴史修正主義に走って日本の加害を正当化するといったことが保守派の主張に欠かせなくなったのは、保守が理念を失ったことの結果にほかなりません。豊かさをなくし、保守の理念が空洞化したからこそ、そのようにしてしか国を正当化することができなくなったのです。

 そしてまた、こうした保守の在り方は、自民党によって世論の誘導に利用されてきました。国内の不満を根本的に解決するのではなく、それを諸外国の脅威や反感をもっておさえこみ、正当化する。そうした役割しか期待されなくなったがために保守は水準を著しく後退させてしまい、人権派やリベラルを批判することはあっても、みずから日本の衰退を打開する主体として振舞う議論をなしえなくなったのです。これは伝統的な保守にとっては悲しいことでしょう。

 日本の衰退を前にして、市民には不満がわきあがってくるはずですが、今の政治はそうした不安を諸外国の方に仕向けたり、強権によって統制するように進んでいっています。また、それとともに教育や私生活にも介入するというのが自民党の一貫した方針です。

 例えば自民党は、この二、三十年あまり、愛国心教育の普及に力を入れてきました。1998年の国旗国歌法の制定と時期を同じくして、愛国心を道徳教育に組み込むことの必要性が強調されるようになり、2001年の「新しい歴史教科書」の検定合格などを経て、2002年には11府県の一部小学校に愛国心を評価する項目が取り入れられています。

 しかしながら、こうした流れには次のような矛盾があることを指摘しておかなければなりません。

 もしも国が国民のために力を尽くし、国民の生活を向上させているのなら、国は信頼され、愛国心もおのずから定着するでしょう。裏を返して言うならば、愛国心の必要性が論じられるのは、そうした当たり前のことが実現されていないからにほかなりません。一部の権力者が甘い汁を吸い、理不尽なことを国民に押し付ける際にそれは必要とされるのです。したがって愛国心を求めるというのは元から道徳に反することなのです。

 今年の1月末には、自民党の一部議員らによって、国旗を傷つける行為を罰する刑法改正案の提出の申し入れがなされましたが、これも新型コロナの感染対策で大変な中であえて動きに乗り出すわけですから、やはり端的に言って市民への統制を見越しているのでしょう。この申し入れの際、自民党の高市氏は「日本の名誉を守るという国家の使命を果たす」という趣旨の説明をしました。けれどここで私たちはいちど立ち止まって、本当に日本の名誉を傷つけてきたのが何者なのかということを問わなければなりません。

 それはどうしたって、与党の30年間の政治だというよりほかにないはずです。

 日本が貧しく、暮らしにくく、また国際的にも力のない国になったのは、1990年頃から30年にもわたって衰退を続けてきた結果にほかなりません。その発端がバブル崩壊により、経済が打撃を被ったことにあったのは事実でしょう。しかし大事なのは、バブル崩壊のあと30年も「立ち上がれなかった」ことなのです。

 なぜそうなったのかということの一端を、新型コロナは私たちに示しました。

 日本のコロナ対応が後手後手に回ったことや、検査の拡大が満足にできなかったこと、医療体制の拡充ができずに自宅で亡くなる人が続出したことはご存じのとおりですが、これらはつまるところ、コロナと戦う社会の姿を描けなかったという問題です。

 新型コロナの出現に前後して、マスク、病床、人工呼吸器などの必要な「もの」が変化しました。また、同時に検査、看護、治療といった必要な「こと」も変化します。前者の「もの」は生産体制を、後者の「こと」は担い手の確保を必要とするでしょう。こうした新しく変化した状況に応じて、政治は「人・物・金」といった社会のリソースを動かさなければなりません。こうした変化に適切に対応できなければ、特定の世代、職種、地域などの人から力を発揮する機会を奪ってしまうことにつながります。コロナの場合は死者を出すことも結果してしまうのです。

 バブル崩壊後の日本が陥ったのもこれと似た状況です。バブル崩壊で打撃を受けた際、社会は変化を迫られました。けれども政府が行ったのは非正規雇用への切り替えや労働の強化といった、適切とはとてもいえない方向への変化だったのです。その結果、特定の世代、職種、地域はどうなったでしょうか。

 当時、社会に出ていった世代はロスト・ジェネレーションと呼ばれていますが、この世代は非正規化の直撃を受けた結果、技術を蓄積し、力を蓄え、活躍する機会が奪われました。職種については様々ですが、長時間労働を強いられ、仕事に押しつぶされる人たちがいる一方で、職を求めてさまよう人たちもいるという倒錯した事態があちこちで生まれました。また地域を見れば、地方の衰退が進行し、地方にいるがゆえに多様な仕事に就けずに活躍できないという問題が生まれました。もちろん、だからといって誰も彼もが都市部に移り住めるわけではないのにです。

 そうしてこの30年、こうしたさまざまな失われた機会を前にして、政府は「自己責任」といって開き直ってきたのでした。

 この発想は、今年1月27日の参院予算委員会で「収入を失って路頭に迷う方々、命を落とされている方々が多数に上っている。政府の施策は届いているか」 と問われた際、「最終的には生活保護という仕組みもある」と回答した菅首相の考え方にも通底するものがあります。合理的に考えていくならば、生活保護を必要とするよりも早い段階で支えた方が、精神的にも肉体的にも、当然ながら仕事においても力を発揮できるはずなのに、政府はそういった考え方では動きません。それどころか、新型コロナの検査体制や医療体制の拡充の際に見せつけられたように、合理的なことをやらず、そのことを手を変え品を変え屁理屈をこねて正当化するありさまです。そうした正当化のためにデータや学問さえ利用する姿勢であることはまた、記憶に新しい統計不正や日本学術会議への人事介入とも切り離すことのできない問題であるわけです。

 不合理なことはコロナ対策や雇用、経済にとどまるわけではありません。この30年間の少子化対策や高齢化対策にも、外交にも、年金や社会保障にも、原発やエネルギー政策にも全く同じことがいえるのです。一つ一つの局面で、一人一人が力を発揮できない社会がつくりあげられてきてしまいました。労働生産性――つまり、一時間あたりに一人の人間がつくる「もの」や、なす「こと」の量がこの30年で一向に伸びなかったのは、その結果にほかなりません。技術革新があったのにもかかわらずこんなことになったのは日本くらいのものなのです。

 すなわち今の日本のコロナ対応のひどさは、バブル崩壊以降30年の衰退の結果であるとともに、その衰退をもたらした原因と不可分というふうに考えていく必要があります。コロナ対応のひどさを目の当たりにした今、私たちにはまさにそのコロナ対応だけでなく、この30年の衰退をどう転換し、未来を描くことができるのかが問われているのです。

 30年というのは世代交代が起こるほどの時間で、それほど長く政治の失敗が続いてきたがゆえに、私たちにはそれが日常となり、それを転換することすらあきらめかけているかもしれません。データからすると、そのあきらめが支持政党を持たない「無党派層」の多さや、投票率の低さでもあるわけです。

 1990年代に無党派層が急増し、国政選挙の投票率が大幅に低下したことにはこれまで幾度か触れてきましたが、本当に問題にするべきは、「あのとき始まったものを、いまだに引きずっている」という現実です。30年前のことは、私たちが背負うものであるとしても、もはや今を説明するのに十分な理由にはなりません。私たちの社会がもしあと15年このままの姿を変えられなかったら、戦後90年を迎える頃には、日本は45年間発展して45年間衰退した国と言うことになってしまうでしょう。そんなことになったら、それは世界各国の後世の教科書に残るような失敗です。

 こうした事態を転換するためにどうしたらよいでしょうか。

 ひとつ端的な例を挙げてみます。

 自民党は、迫りくる日本の人口減少や労働力の不足に対応するため、実質的な移民政策としての外国人労働者の受け入れを拡大しています。しかし日本の人口減少は急激で、10年後には700万人が減り、そこから先はさらに加速的になることが予測されています。ですから人口を移民で補うとした場合、それは日本を多民族国家にするようなことを想定しなければ対応しきれません。これに対して、日本は多文化共生に耐えられないから、人口減少と衰退を受け入れ、貧富の差を解消することに注力すべきだという主張もみられます。

 けれどもこれは、今までの自民党の政治を前提にしつつ、せいぜい再分配で妥協するという程度の議論にすぎません。大きく欠けている視点があるのです。

 それは、人間が力を発揮できる社会を作るということにほかなりません。結局のところ、人間社会の発展は、人間が力を発揮するということにしかないからです。必要な「もの」や「こと」もまた、そこからしか生み出されないからです。だから様々な職業、世代、地域に住んでいる人たちが、まさにそのことによって力を発揮できないという事態を解決しなければならないのです。この30年間、そうしたことがないがしろにされた結果、日本はまったく生きづらい社会になってしまいました。こんな衰退が起きているのは日本でしかないということの異常さを、新型コロナで様々な矛盾を目の当たりにした以上、もはや看過することはできません。

 自民党は日本の衰退と向き合っておらず、乱暴な政策を掲げる傍らで、国民を強権的に統制する道を示しています。けれどもう一つ、別の道があるはずです。それは日本の30年の衰退と根本的に向き合っていくことからしか開けない道です。

 私たちの社会の歪みは、複雑に絡み合っているがゆえに、解決することは容易ではありません。けれども解決の道を目指して努力を積み重ねることは可能であるはずです。あの時、あそこから未来が変わったのだと後世の人たちが振り返るように、いま衰退の歴史を打開する道を探しましょう。

 昨日までの世界の延長に、今日からの世界が広がって見えています。それは暗いかもしれません。けれど明日の世界はこの手から生まれます。

 新型コロナをめぐる議論が、日本の未来を左右する総合的なものに発展することを期待します。

2021.02.16 三春充希

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