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イスラエル・パレスチナ問題を知る ①

1.パレスチナとは

パレスチナは地中海の東岸一帯で古くはレヴァントとも言われた、シリアの南部一帯を言います。かつてはユダヤ人(ヘブライ人)がイスラエル王国を造っていましたが、紀元前1世紀にローマ帝国領となりユダヤ人は離散し、その後、この地はイスラム化してアラブ系住民が居住するようになりました。

(出典:外務省)

パレスチナはエジプト、東にヨルダンがあって、北にはシリアやレバノンがある場所です。

中東の一角を占めるパレスチナは日本の秋田・山形を合せた面積よりやや狭い大きさです。海岸部と山地、ヨルダン川で結ばれるガラリア湖から死海(海抜-400mにある塩湖)にかけての地溝帯から成る変化に富んだ地形であり、オリエントの肥沃な三日月地帯の一部を構成しており、特に北部は豊かな土地が広がっており、旧約聖書で「乳と蜜の流れる地」(蜜はハチミツではなく果汁)と言われています。

また、シリアとエジプトの中間に位置し交易の要衝でもありました。パレスチナの中心地エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の聖地であり、中東重要な歴史的都市があるのが、昔のパレスチナです。

(Source: ikadi.or.id)

2.ユダヤ人の離散(ディアスポラ)の起源

新約聖書、特にイエス・キリストの言行録にあたる福音書の筆頭におかれているマタイによる伝記は、その冒頭に次の文章で始めています。

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」--この言葉はイエスがユダヤ教の家系を継ぐものとして、第1章17節で、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン移住まで14代、バビロンからキリストまで14代と書かれています。

イエスはユダヤ人です。イエスはその生涯を西暦33年頃にユダヤ人の民衆の承認によって処刑されました。犠牲となったこの段階のユダヤ人イエスは「香油を塗られたもの」という意味のキリストという名を帯びるようになりました。

キリスト教徒によるユダヤ人に対する憎悪と差別の歴史は、イエスと同時代のユダヤ市民がイエスをキリスト、つまりメシアであると認めず処刑したことによります。7世紀にムハンマドの興したイスラム教もコーランの教えに従って、イッサ(イエス)を予言者のひとりと認めているに過ぎません。イエスが旧約聖書で予言されていた救世主(メシア)であり、「天の父なる神と聖霊と子の三位一体」をかたち造るという信仰がローマ帝国の国教とされるまでにまだ三世紀を必要としました。

その後、キリストの使徒たちの努力もあり、キリスト教は古代ギリシャの精神の影響下にあったローマ帝国の支配地域に徐々に伝播しはじめていました。

ローマ時代のパレスチナは紀元6年からローマ帝国の属州ユダヤエとして支配されていました。そのパレスチナで1世紀後半から2世紀にかけてユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こりました。

ローマの属州ユダヤエで独自の民族宗教ユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、第一次ユダヤ戦争が始まりました。時の皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを反乱鎮圧のために派遣しました。ウェスパシアヌスはガラリヤ地方を反乱軍から奪回し、エルサレムに迫りました。その途中、本国で皇帝ネロが失脚し、69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐在する軍隊の支持を受けて皇帝に就くこととなり、アレクサンドリアを経てローマに帰りました。ユダヤ戦争の指揮を引き継いだその息子ティトウスはエルサレムを7カ月にわたって包囲攻撃し、70年9月に陥落させました。

反乱はその後も一部で続きましたが、74年春に死海の南岸に近いマサダの反乱軍要塞が陥落し、終わりを告げました。この時のユダヤのローマに対する戦いの詳細は、フラウィス=ヨセフスという人の『ユダヤ戦記』に詳しく書き残されています。

2世紀に入り、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になってきました。ローマ帝国ハドリアヌスは五賢帝の一人で膨張政策を改め、帝国の安定を図っていましたが、その晩年に至って、エルサレムに自己の家名を付けた都市に衣替えし、ヤハウェ神殿を破壊してローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとしました。このことはユダヤ人の怒りを買い、131年に第2回ユダヤ戦争といわれるユダヤ人の反ローマ帝国が再開されました。

この第二次ユダヤ戦争で反乱の戦闘に立ったのは、バル=コクバ(星の子)と呼ばれる力と人格に優れた人物でした。戦いはパレスチナ全土に広がり、一時はエルサレムを占領して神殿を復興し、ローマからの解放を記念して貨幣も鋳造しています。反乱は3年ほど持ちこたえましたが、ハドリアヌスはユリウス=セヴェルスをブリテン島から呼び戻し、大軍をエルサレムに派遣、装備に優れたローマ軍がエルサレムを再び占領、反乱軍は掃討され、135年に指導者バル=コクバも捕らえられて処刑され、反乱は終わりました。

この戦争はパレスチナにおけるユダヤ人の最後の抵抗となりました。ローマ帝国のもとでエルサレムはエルサレムは再び破壊され、新しい市街地にはユダヤ人は一切の立ち入りを禁止され、ユダヤ人の多くは地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなりました。

第二次ユダヤ戦争は凄惨を極めました。ユダヤは完全に破壊しつくされました。無数のユダヤ人が命を落としただけでなく、数知れぬユダヤ人が捕虜となり、奴隷として売られました。その数が余りにも多く、ユダヤ人奴隷市場はインフレを起こし、奴隷一人の値段は馬の飼い葉一回分であったとする言われています。

聖都エルサレムは消滅し、その地にユダヤ人が足を踏み入れることは死罪をもって禁じられました。ただ、紀元四世紀に至ってようやく、年に一回、アブの月の9日(70年のエルサレム滅亡の日であり、135年のペダル陥落の日)にのみ、旧神殿の壁にすがって祈ることが許されました。これが、いわゆるエルサレムの『嘆きの壁』はここから由来します。

神殿が崩壊した日は、ユダヤ教とユダヤ人の歴史の中で、「民族の悲劇の日」とされ、「ティシュアー・ベ=アーブ」と呼ばれる悲しみの記念日とされています。

ディアスポラは民族離散を意味し、「(種などが)撒き散らされたもの」(ディア(「分散する」+スピロ「種をまく」)という意味のギリシア語に由来する言葉です。

3.ユダヤ人迫害の歴史

【十字軍時代の迫害】

中世が「暗黒時代」であったということは、身分の低い農奴や被差別民にとっては事実であり、ユダヤ人にとっては特に厳しい現実でした。

ユダヤ人がローマ・カトリック教会の庇護を公式に受けたのはグレゴリウス教皇(540?-604)の布告でした。布告はユダヤ人は洗礼を強制されず、むしろ外国人としての恩義を与えるように指示していました。その後、さらにカロリング王朝のルイⅠ世(敬虔王814-840)により、ユダヤ系の特定個人に様々な特権を与えることが伝統的に受け継がれることになりました。

キリスト教徒には禁じられている金貸し業務はユダヤ人に押し付けられ、ユダヤ人が債権者、キリスト教徒が債務者となる慣習が定着しました。

しかし、11世紀末の十字軍時代以降、ユダヤ人の迫害が始まりました。十字軍とは11世紀末から13世紀にかけて、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するため、前後8回にわたり行われた西欧キリスト教徒による遠征のことを言います。

イスラム教徒によって冒涜された聖地を奪回する十字軍兵士と同じように、ヨーロッパの内なるキリスト教の敵であるユダヤ人と戦うことが必要だと扇動する者もいました。彼らは流血した血は、キリストを殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちになるのだと主張していました。

第1回十字軍が派遣された1096年5月、早くもドイツのライン地方でユダヤ人に対する襲撃事件が始まっています。ロレーヌ地方で最初の反ユダヤ人暴動が起こり、ユダヤ人22名が犠牲になりました。ライニンゲン伯爵エミコの指揮する部隊が襲撃の指導に当たりました。

さらに5月3日の安息日にはシェパイエルのシナゴーグが包囲され攻撃を受けました。さらに5月18日の日曜日、ヴォルムスで市民が見て見ぬふりをしている中で、ユダヤ人が攻撃が行われ、洗礼を受けて難を逃れた者と自殺したもの以外は全員虐殺されました。同じような出来事はラインの谷に沿って次々と起こり、5月30日にはケルンと遠く離れたプラハでも起こりました。

第1回十字軍は、本隊が1097年にエルサレムに進入、聖都の急な坂道には血の川が流れ、ユダヤ人はシナゴーグに押し込められて火を付けられました。こうして、この残酷無残な殺戮によってユダヤ人と彼らの旧首都エルサレムとの何世紀にもわたる結びつきは終わりました。

第2回十字軍(1147年)でも、ライン地方とフランスで反ユダヤ暴動が起こっています。第3回十字軍に英国のリチャード1世が参加すると、1189年9月にロンドンでユダヤ街での略奪が起こり、翌年春には全国に及びました。ヨークでは逃げ場を失ったユダヤ人が場内に逃げ込んで、逃げられないとラビの指導のもとで子供も含めて刺し違えて自殺するという事件も起こりました。

ユダヤ人襲撃は十字軍は単なる口実となっていきました。しかし、やがてその口実も不必要になり、ユダヤ人迫害の理由は言いがかりのようなものになっていきました。例えば、次のようなことが挙げられます。

・ユダヤ人は「過越の祭」を祝うために子供を殺している(この言いがかりはローマ時代や中国でのキリスト教徒に対しても向けられた)
・ユダヤ人は「種なしパン」を作るため人間の血を使う(モーセの律法には動物の血の飲食を禁止しているのでありえない)
・大火が起きればユダヤ人が火をつけた、疫病が流行ればユダヤ人が毒を使ったと疑われた。
・キリスト教の異端はみなユダヤ教からきている非難された。
・内乱が起きると国王はユダヤ人が内通していると疑い、叛徒側はユダヤ人は国王の手先だとして、双方から略奪を受けた。
・イエスの受難の想い出を伴う「復活節」が近づくユダヤ人攻撃が行われた。

【中世ヨーロッパでのユダヤ人迫害】

キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という教えに縛れていたのに対して、ユダヤ人は「金貸し」(金融業)が許されていたことから、商業の復活に伴って豊かになっていきました。それは貧しいキリスト教徒の恨みを買うこととなりました。

カトリック教会は聖書の「イエスの山上の垂訓」の中に「何もあてにしないで貸してやれ」とあることを根拠に利子を取って金銭を取ることに反対しました。本来のヘブライ語では「何かに報われるという希望を決して失わずに貸してやれ」という意味でしたが、この誤解がアリストテレスの考えと一致しているとして権威づけられて通用してしまいました。

1179年の第3回ラテラノ公会議では憎むべき高利貸業に従事するものはキリスト教徒として埋葬を拒否されることになりました。しかし、商業の発展には金融は不可欠だったので、ユダヤの金融業者は増えていきました。

そのため、ユダヤ人は唯一の資本家階級となり、戦争と建築はその資本の援助がなければできないようになりました。十字軍もその資本が不可欠でしたが、逆にユダヤ人は聖なる戦いである十字軍で儲けているという非難場おこるようになりました。まもなくイタリヤや南ドイツではユダヤ商人以外に金融を営むものが必然的に生まれましたが、彼らは主に国王や貴族を相手にし、庶民金融はユダヤ商人が行っていたので、庶民の怨みはユダヤ商人だけに向けられることになりました。

1179年の第3回ラテラノ公会議では上記の他に、当時最も問題とされた異端運動であるアルビジョワ派(※1)対策として、ユダヤ人がキリスト教徒を使用人とすることを禁止し、キリスト教徒とユダヤ教徒が同居することの一切禁止されました。これが後のゲットー(Ghetto)(※2)の根拠となっていきました。
(※1中世のフランス王国の南部で勢力のあった、ローマ教会からは異端とされたキリスト教の一派)
(※2第一次世界大戦中にナチスドイツが占領したポーランドなどで、ユダヤ人を強制的に隔離し、集団で居住させた地区のこと)

最盛期のローマ教皇として知られるインノケンティウス3世は第4回ラテラノ公会議を召集、1215年11月30日に、より一層過酷な反ユダヤ人政策を打ち出し、教皇勅書として公布しました。それはすべての異教徒に対し「差別バッジ」を付けることとし、それによってユダヤ教徒はイスラム教徒らとともに通常、標識を身につけなければならなくなりました。かつてイスラム教国で行われていたことを取り入れたもので、初めてキリスト教世界でも取り上げられました。普通、バッジは黄色か深紅色の布切れでしたが、英国では十戒を刻み込んだ二枚の石版、フランス・ドイツその他では車輪か〇の形をしたものが用いられました。バッジだけでは不十分と思われたところでは、目立ちやすい色の帽子をかぶることが決められました。

こうしたことは結局、ユダヤ人に永久に「賎民」の烙印を押し、ユダヤ人の一人一人をたえず周囲の侮辱の目にさらし、大衆の反ユダヤ感情が爆発した際、ユダヤ社会全体は大量虐殺の目標となりました。

【ユダヤ人の追放と迫害】

13~14世紀、キリスト教徒はユダヤ教がイエスを救世主として認めないこと、イエスを裏切ったのがユダヤ人だったことなどを口実に、しばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)を行うようになっていきました。また英国、フランス、スペインでは国外追放されたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられたすることとなりました。

【英国】

1215年11月30日、ラテラノ公会議での教皇勅書が発行して以来、暗雲が厚くたちこめました。国によってはユダヤ人の一掃を国家の責務とするところも現れました。その最初は英国で、しばらくユダヤ人に対する虐殺が続いた後、1275年にエドワード1世は「ユダヤ人に対する法律」を定めて高利貸業を禁止し、さらに1290年にユダヤ人は3カ月以内に英国を去るべし、と命じました。それによって、1万6千人余りのユダヤ人が国外に出てユダヤ社会はその後再現できませんでした。しかし、ユダヤ人を完全に追放することはできませんでした。

【フランス】

聖王と言われたルイ19世はラテラノ公会議の決定を徹底的に実行しようとしました。1249年、十字軍に出発する直前、ユダヤ人を国外に追放することを布告しましたが、これは実行されませんでした。孫の美王フィリップ4世は1306年7月22日、国内のユダヤ人を一斉に逮捕し、獄中で1ヶ月以内の国外退去を命じ、その財産は国王が没収しました。しかし、財政難のため次のルイ10世は1315年、12年間の帰国を認めざるを得ませんでした。

ところが、帰国したユダヤ人は1320年、南フランスから始まった一種の国内版十字軍の襲撃対象とされ、ユダヤ人の籟病患者がチュニスとグラナダのイスラムの王と結託して各地の井戸に毒を投げ込んだという荒唐無稽な嫌疑をかけられてほとんど前例のない大量虐殺が行われ、生き残ったものは国外に追放されました。

フランスではその後も財政困難になると国王がユダヤ人の帰国を許し、また襲撃されて追放されるということを繰り返し、1394年に狂気のシャルル6世によって最終的に追放されました。ユダヤ人はドイツや、ピレネーを越えてスペインに逃れました。

【ドイツ】

神聖ローマ皇帝カール4世(在位1347年~78年)の治下のドイツでは国外追放という措置は取られませんでしたが、ユダヤ人に対する虐殺はその後も続きました。1336年にはアルザスなどで率直にも「ユダヤ人殺し」と自称し、腕に革紐をまいたので、「腕革」とあだ名された二人の貴族に率いられた暴徒がユダヤ人を大量殺害している。

16世紀にドイツで始まった宗教改革でもルターはユダヤ教に対し否定的であったので、ドイツでの迫害はさらに続きました。そのため、ドイツのユダヤ人の多くはポーランド、ウクライナなどの東方に移住しました。彼らはアシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する。その複数形がアシュケナジーム)といわれ、彼らはイデッシュ語というドイツ語の中部高地方言にスラブ語やヘブライ語が混じった言語を用いていました。このアシュケナジームは20世紀のナチス=ドイツのユダヤ人絶滅政策の対象とされ、また第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国を主導した人々です。

②へ続く


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